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さつまいもでん粉産業の変遷(1)

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最終更新日:2012年5月24日

さつまいもでん粉産業の変遷(1)

2011年7月

農業情報アドバイザー 下野 公正
 

 我が国のさつまいもでん粉産業の歴史をまとめるにあたって、さつまいもがどのようにでん粉の加工と結びついたのか、その要因はどこにあるのか、さつまいもが日本に伝播する以前に他の植物からでん粉を製造する技術があったものか、興味をもったところである。そこで、さつまいもの我が国への伝来の歴史とでん粉製造の始まりを整理することにした。

1.さつまいもの起源(原産地から世界へ)

 鹿児島県資料、『伝播と普及』によれば、さつまいもは、メキシコ南部を中心とする中米から南米北部が原産地とされ、一般に紀元前3000年頃には、熱帯アメリカでかなり広く食べられていたのではないかと考えられている。

 さつまいものアジアへの伝播については諸説あるが、コロンブス(1451−1506年)が、中米、南米北部地域からヨーロッパに持ち帰り、そこから、アフリカ、インド、更に、インドネシア、中国に達したルートの他、16世紀以降にスペイン人によって、メキシコからハワイ、グアムを経て、フィリピンに達したルート、更には、有史以前に南米のルートから太平洋の島々を経て、ニューギニアに至ったルートが存在したと考えられている。

2.日本への伝来と普及

 さつまいもの日本への伝来については、記録として残されているもののほか、多数の説があると考えられている。原産地から民族の移住や通商航海などによって運ばれ、その行先で試作し評価を重ね、その地方に定着するようになったものと考えられる。新たな移入作物の定着には、第1に気象条件や土壌など、自然条件に適合した作物であったこと、第2に人間が生活する上で、主食として有用で食生活に馴染む作物であったこと、第3には他の作物と同様に栽培が容易にできたことなどの条件を満たすための厳しい道のりがあったと想像される。

(1)日本への伝来

 さつまいもの伝来について、記録として残されているものでも複数ある。宮古島市の市指定典籍によると、1597(万暦22)年砂川旨屋が、上国の帰途中国に漂着し、3年後帰国した時、芋づるを持ち帰り栽培普及したとされている。 更に史実によれば、1605(慶長10)年江戸時代の初期の頃、沖縄のぐに総管そうかん(姓名不詳)(中国貿易の進貢船〔進物を運ぶ船〕の総管職〔事務長職相当〕)が中国福建省からの帰途、数個のいもを持ち帰り、中頭郡北中村(現在の嘉手納町谷国)の畑地に植え、その後、野国から栽培方法を学んだ儀間眞常(1557−1644年)が、さつまいもの栽培を全島に奨励し普及したと言われている。

(2)鹿児島への伝来 

 鹿児島への伝来については、島津藩の兵士によって、1609(慶長14)年に琉球から持ち帰った記録が残されている。栽培の記録としては、1698(元禄11)年種子島の島主久基に琉球王尚貞氏がさつまいもを贈り、これを大瀬久衛門が西之表村下石寺(現在の西之表市石寺)に栽培したというのが最初である。(鹿児島県資料:伝来と普及甘しょとでん粉百年の歩み)

 その後、1705(宝来2)年には山川(現在の指宿市山川)の船乗り前田利右衛門が、琉球から3個のいもを盆栽植えにして持ち帰り、自ら畑に試作したとされており、前田翁は、その苗を村人に分かち与えたところ、たちまち、近隣諸村に広がり、薩摩全域に広まっていったと伝えられている。

 種子島久基は、後に島津の家老にもなり、島民には、「藷殿様(いもとのさま)」としてたたえられ、西之表市の楢林神社に祭られている。また、前田利右衛門は、「甘藷翁(からいもおんじょ)」として、山川町の徳光神社に祭られている。(旧山川町郷土史)

(3)全国への伝播

 さつまいもの国内への伝播については、様々な人の貢献があるが、関東での普及に貢献したのが、青木昆陽である。昆陽はかねてから、さつまいもが救荒作物として優れているという意見を持ち、「さつまいも」の栽培法や形状、味などのほか、薩摩での栽培の実態などを記した「蕃藷考」を1735(享保20)年に著し、これを時の八代将軍吉宗に提出している。その仲介をしたのが、当時の町奉行大岡越前守であった。昆陽の建策は、幕府に採用されることになり、昆陽自ら責任者となって江戸小石川で試作に成功し、その種いもが江戸近郊の農村をはじめ、関東や東日本に広がる端緒を開いたといえる。この時の種いもを利用して翌年、下総馬加村(現在の千葉市花見川区幕張) にさつまいもの栽培試験畑を設置し、普及に努めた。

3.さつまいもでん粉の始まり

 でん粉の食物としての利用については、、『日本食物史』(桜井秀・足立勇共著)に古代から明治時代までの間、どのような植物を食物として食べていたかが記されており、「田葛はくずで、根は山芋にて、これからくず粉を取る」とある。また、『茶菓子の話』(鈴木宗康著)によると、「今日の吉野葛は、奈良時代役小角えんのおすみなる修験者が始めた」とある。このことからくずの根から葛粉を取って食用にしていたことがうかがえる。(株式会社廣八堂・葛記念館の本)

 植物からのでん粉の採取技術は、様々な研究や工夫を重ねるうちに、改善がなされ発展をとげ、原料植物から葛粉、かたくり粉、ワラビ粉の名称を用い、食品として加工され、伝統的な菓子になったり、医薬品として使われたりして今日に至っている。

 このような歴史の中で、さつまいもからでん粉を作るようになったのは、今から約170年余り前の江戸時代末期のことである。我が国にさつまいもが伝来し、全国的に栽培されるようになり、栽培面積が拡大し、生産量も増えたことから、直接いもを食べることから、加工したり、でん粉を取り出し蓄えて使うようになったもので、関氏『甘藷と澱粉百年の歩み』によれば「さつまいもからでん粉が作られるようになってからも、初めのうちは、葛粉の代用品であったし、葛粉と言う名称は可なり永い間、国民に親しまれていた。」とされている。

(1)さつまいもでん粉の発祥地は千葉県

 さつまいもでん粉製造の創始者については諸説あるが、関氏によると、我が国のさつまいもでん粉の発祥地は、千葉県であるとしている。原料となるさつまいもの生産量が多いことを要因として、『甘藷と澱粉百年の歩み』の中で、そのきっかけとなった史実を紹介している。それによると、「野州の旅商人」(野州=現在の栃木県)が、下総国千葉町(現在の千葉市稲毛区)の顧客を訪問する時、きまって逗留する「旅商人の宿」に宿泊し、夕食もすんだ後、宿の主人と囲炉裏を囲んでの話がさつまいもの話になった。

 この地は、青木昆陽がさつまいもの栽培試験地を設置した千葉県馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)の近くであり、試験栽培の影響で栽培面積も拡大し、100年の歳月を経ていることから、さつまいもの産地になっていたと思われる。当時のさつまいもの利用方法は、直接いもを食するか、いも飴、白玉粉が主なものであったことから、なんとか大量に加工し、収入を得る方法が模索されていたと考えられる。

 ここに、野州の旅商人からさつまいもからでん粉を取ったらという話がもたらされた。上記資料によれば、翌日その方法を大根卸しを使って伝授されたのが、そもそも我国の甘しょでん粉製造の起源とされている。さつまいもから代用葛の製法を、「野州の商人」が独創的に考案したものか、それとも、旅商人として、各地を行脚し、何処かで見てきたものか、それとも、かたくり粉などを作っている地方の風習を見て、それからヒントを得たものか、その辺りは明らかでないが、その当時としては、すばらしいすぐれたアイディアの持主であり、我国の甘しょでん粉生みの親と言うべき功労者であるとしている。

 当時(1834(天保5)年)の製造法は、さつまいもを水洗いしたものを大根卸しの大きな卸し金を使って摺り潰したものを布袋に入れ絞り、その汁を大きな樽に入れ沈殿させ、上水を捨て底に沈んだ粉を莚に拡げて陽干し、天然葛の代用としたものとされている。

 その後、卸し金から鉄板を円筒形にしたロールに変り、これを男たち数人の腕力で廻して、いもを摺りおろし一旦桶に溜め、布袋に入れ、足踏みして、でん粉と粕とを分けるというような製造法であったと言われている。

 この頃のでん粉製造行程の原理は今も変りないものであり、その後、時代の流れと共に、動力も人力、水車、発動機、電力と変化し、機械器具、製造工程にも幾多の改良が加えられ、これが今日の効率的でかつ高品質のでん粉を作る原動力となった。

(2)九州におけるさつまいもでん粉の始まり

 九州のさつまいもでん粉製造の始まりは、長崎県大村地方だとされている。大村市が編さんした『大村市史』(大村市史編さん委員会(昭和36発行)によると、大村地方は古来より甘藷の適作地であり、九州のでん粉工業の発祥地となっている。

 前述の関氏『甘藷とでん粉百年の歩み』によると、長崎県のさつまいも発祥の地は平戸島で、この島に植栽されたのは、1615(元和元)年と、薩摩の国の前田利衛門翁が琉球より種子いもを持ち帰った1705(宝来2)年よりも早く、あまり知られていないが、本土植栽の元祖は、同島であるとしている。

 それが大村地方で広がったのは、畑も広く、土質も良く、大村湾に面し、温暖な気象条件がさつまいもの栽培に適したことが要因であろうと考える。

 また、史実によると、大村藩第七代藩主、大村純富(1727〜1748年)が享保の大飢饉の救荒作物として、さつまいもの栽培を奨励したと記録にある。これもこの地にさつまいも栽培が盛んになった要因と考える。さつまいものでん粉製造については、『大村市史』によると、明治36年ごろ、上村常吉氏が大村市松山馬場崎で自ら考案した足踏みローラーを利用してさつまいもをローラーで摺りつぶし、汁をしぼり、水を加え、かきまぜ、別の桶に蓄えて、上澄水を捨て、沈殿物は、木の台にのせて乾かしでん粉を作ったのが九州でのでん粉製造の元祖であるとしている。

 それ以前の明治30年頃、大村の大上戸川付近(現在の水主かこ町)において、田中庄八氏は、カンネンカヅラ(葛)の幹を摺りつぶし、水洗いし、沈澱させ、葛粉を作っていたことがある。そうした由来から、さつまいもででん粉を作るきっかけになったのではと思うが、明らかではない。しかし、さつまいもで作ったでん粉もこれを区別せず葛粉とよんでいたようである。また、同年ごろ北高来郡古賀村(現在長崎市古賀町)において、さつまいもを摺鉢ですりつぶしでん粉を作り、同村の地名をとり、コガクズという名称で呼ばれていたと記されている。

 その後、このように、大村地域が九州地域でのでん粉産業発展の礎えになったことをうかがわせるものがある。でん粉製造に動力が使われるようになったのは、前述の『大村市史』によると、明治40年頃、大阪から来た吉野氏が、5馬力の発電機で「ローラー」を回転させて、でん粉を製造しはじめたとある。これが、動力を使用するようになった最初であると言う。

 同年頃、大産地大村に目をつけた。鹿屋市清水栄吉氏、田野純三氏、谷川氏、今道氏などが各人100円宛出資し、共同工場を設立した。

 また、明治42年頃になると、晒でん粉の製造を開始した。これが、全国におけるサラシでん粉製造の始まりである。

 でん粉製造機の発展にも大きく寄与している大村式のでん粉製造機は、この頃、田野純三氏が、ドイツから参考書をとりよせ翻訳し、研究考察したものであり、鹿児島、千葉式を取り入れ、改良の結果、開発された。これは、「通し」を利用するようになったもので、全国初であり、大村式として広く知られている。

 また、モーター利用の方式を考察したのが、当時長崎県工業協同組合の理事をしていた松尾六次氏で、大正4年頃、電気会社から三馬力のモーターを借用し、使用した。当時電力は夜間だけの使用が認められており、夜間操業を行っていたと記されている。

(3)鹿児島におけるでん粉産業の始まり

 鹿児島でのさつまいもでん粉は、当初は自家用の餅とり粉や食用を目的に、薄い鉄板に穴をあけたものを使用し、大根おろしの方法でさつまいもを摺りおろして、これを布製の袋に入れ絞り、その絞り汁を桶の中で沈澱させ、それを取り出し天日で乾燥させでん粉を作っていた。

 『かごしまさつまいも小事典』(平成17年)によると、販売用のさつまいもでん粉の製造は、明治26年現在の西之表市現和で、鹿児島出身の山下徳蔵氏が工場を作り開始した。大根卸しのようなもので、さつまいもを手で摺りおろし、これを布袋に入れ、水を入れた桶の中で、足ででん粉を踏み出す方法で製造し、販売を始めたとされている。

 また、明治百年記念『現和郷土誌』(西之表市)によると、明治36年、地域のさつまいもの生産量が増加してきたことに対応するため、古賀松次郎氏が石臼を利用してでん粉製造を始めたが、明治39年の秋、大洪水のため諸道具を流され、目的を達成せず廃止、その後、明治40年地区民が西之表市の山下徳蔵氏に依頼し、工場を設置したとある。当初は、水車を利用していたものの、さつまいもの生産量が増えたことから、6馬力の発動機に動力をかえて製造したと記されている。

 また、明治35年鹿屋村中名(現 鹿屋市王子町)で、木山嘉七(明治8年〜昭和19年)氏が千葉県で学んだでん粉製造法をもって、製造を始めた(『さつまいも小事典』)。その時の製造法は、直径20cm、長さ80cmの木のローラーに薄い鉄板巻き、この鉄板に目立をして、4人ぐらいでハンドルをまわしながら、さつまいもを摺り込む方法であった。この頃、長崎県大村で、共同のでん粉工場を整備した鹿屋村白崎(現 鹿屋市白崎)の清水栄吉氏は、動力に水車を使用したでん粉工場を整備したとされている。その後、先進県では生産量の増加に対処するため、処理能力の高い機械が開発されてきたが、それが鹿児島に入ったのは、大正時代になってからである。

 日本澱粉工業株式会社『本坊氏卆寿記念誌』によると、大正時代に入り、大正7年「日本でん粉株式会社」が設立され、九州に8工場が建設された。特に、鹿児島市稲荷町には、でん粉、水飴、アルコール、黒糖を製造する総合工場が建設された。その工場は、第一次世界大戦時(1914年〜18年)は好景気時代を迎えたが、大戦後の経済恐慌時代に直面し、工場を閉鎖という厳しい状況になったと記されている。

 この日本澱粉梶i現在の日本澱粉工業鰍ナはない)は、当時、資本金100万円を得て九州各県に工場を建設し、25馬力の発動機を動力とし、生産効率の高い近代的な企業として、業界では注目をあびたとされている。

 この頃から、でん粉企業として発展していくことになるが、でん粉製造が食品としてのみならず、工業用、また医薬品として多用途化していく始まりであったと言えよう。


 本稿は、当機構ホームページ(でん粉分野)の記事「鹿児島県におけるでん粉原料用さつまいも及びでん粉産業」からの抜粋である。
このページに掲載されている情報の発信元
農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)
Tel:03-3583-8713



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