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内外の伝統的な砂糖製造法(3)

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最終更新日:2011年9月9日

内外の伝統的な砂糖製造法(3)〜奄美大島黒糖製造〜

2011年9月

昭和女子大学 国際文化研究所 客員研究員 荒尾美代

 ナチュラル志向、健康ブームで、黒い部分にミネラル分が含まれている黒砂糖の人気が高まっている。もちろん、黒砂糖の風味を好む人も多い。

 奄美大島のみならず奄美群島や沖縄諸島で作られる黒砂糖は、お店によって、味も、食感も違う。かじるという表現が合うほど硬いものもあれば、手で割ることができるポロッとしたもの、噛むとキャラメルのように歯にまとわりつくものなどさまざまだ。黒糖製造所でも、毎日「感じ」が違う黒糖ができるという。

 黒砂糖の作り方を簡単にいうと、さとうきびの茎から中のジュースを搾り、不純物を取り除きながら煮つめて、攪拌して固める。黒砂糖の作り方は、いたって簡単のようにみえるが、アメ化しないように結晶化させるのには、煮つめ方にも熟練の技、勘が必要である。


 龍郷たつごう
中勝なかがち地区の水間黒糖製造工場は、明治31年8月25日に行われた第2回黒糖品評会で一等賞を受賞したほど、歴史ある工場である。まずは、現在この工場で作られている黒砂糖の製造法から紹介しよう。

  黒糖製造は、11月から6月位までのさとうきびが収穫される時期にだけ行われ、畑から刈り取られたフレッシュなさとうきびを使用する。ローラーの間にさとうきびの茎を数本挿し込んで、中のジュースを圧搾する(写真1)。竈はバーナーと、木材を燃料としていて、竈の入り口から長方形の鍋2つが、縦に前後に配置されている(写真2)。鍋にジュースを入れ、加熱する。加熱し始めに食用石灰を水で溶いたものを入れる(写真3)。加熱するにつれ、黒っぽいアクが浮いてくるので、それをすくって除去しながら(写真4)、粘性のある濃縮糖液に仕上げていく(写真5)。濃縮糖液を長方形の鍋から汲み出して攪拌機へ移動させる(写真6)。かつては棒状の道具を使って手作業で攪拌していたというが、現在はスイッチオンで攪拌してくれる攪拌機を使用(写真7)。約4〜5分で、結晶が析出され、結晶と蜜との混合物が出来上がり、トレイ状の容器でドロリ、ドボッと、流れ落ちるのを平坦になるようにして受けとめる(写真8)。まだ温かいうちに切り込みを入れて、冷却乾燥させる(写真9)。チョコレートのような板状になっている黒糖を一口大にハサミで切って出来上がり(写真10)。

 攪拌機の周りについている黒糖は、こそげるようにして取り出し、まだ、生温かいうちに手で千切っていく(写真11)。これは、「なべかき」と呼ばれていて、こちらを好む人もいるそうだ。
 前稿で、「江戸時代の日本初」の砂糖製造地は奄美大島で、はじまりは元禄年間説が有力という話を書いた。

 奄美大島の砂糖が、いつ頃から薩摩藩によって買い入れられたかは不明であるが、正徳3(1713)年の大島代官である酒匂(さかわ)太郎左衛門の日記に、「近年ハ砂糖百拾三万斤ツヽ年々御買入あり」と記されているという。前号で紹介したように、大島に「黍検者」という製糖のことを命令・監督する役人が、薩摩藩から海を渡って派遣されてきたのが、元禄8(1695)年のこと。元禄10(1697)年には、島出身の「黍横目」という在地役人も置かれた。

 それから約15年後には、さとうきびの栽培も、砂糖製造も島の物産となるほどに成功したことをこの代官日記は示している。享保年間(1716〜1735)には、奄美大島や徳ノ島,鬼界ケ島産の黒砂糖が,大坂の蔵屋敷において入札されるに至った。

 奄美大島の砂糖は、その後250万斤の上納となり、延享2(1745)年には、100万斤の臨時買い上げを命じられて、合計350万斤の上納となったという。


 では、江戸時代の奄美大島の黒砂糖は、どのような形状だったのだろうか?
 現在のように、トレイ状の容器に広げて伸ばし、板状だったのか?そして一口大の塊にしていたのだろうか?それとも、パラパラとした砂状であったのだろうか?

 島津藩へ運ばれる砂糖は、樽詰めだった。その樽は、役人が見分して、寸法も後に決められていたほどである(図1)。

 もし、板状や一口大に塊を割るなりしていたら、樽の容量に対して、固まりの形状によって、隙間ができてしまうので重量が大きく異なってしまう。島津藩によって厳しく統制されていた砂糖の製造・運搬にもかかわらず、詳細な製造法や固化させた黒糖の形状に関して記した史料は、管見の限り見当たらない。

 時代は下るが、近世後期から大正初期までの徳之島の人物や風俗を記した『徳之島事情』に、濃縮糖液を移して棒で攪拌し、結晶を析出させる円形の鍋らしきものは描かれているが、その鍋から板状に冷却固化させる台や現代のトレイ類に相当する容器などは描かれていない(図2)。あるのは樽だけである。また、幕末期の『大嶋竊(せつ)覧・大嶋便覧・大嶋漫筆』にも、左端に、攪拌用と思しき鍋が一つ描かれているものの(図3)、まだあたたかい結晶と蜜との混合物を広げるような容器は描かれていない。

 そこで考えられることは、冷却しながら攪拌して結晶を析出させる鍋から、直接樽へ入れたのではないかということである。

 その時の黒糖の状態は、どうであったか。

 完全に冷えると固化してしまうので、人肌程度に冷めて、樽へ移動させることができるドロドロ状態で樽に詰めたのではないだろうか?あるいは、結晶を析出させる鍋で、絶えず攪拌し続けて、鍋の形状に固化してしまうのを防ぎ、豆粒または米粒位の大きさの結晶と黒蜜がくっついた状態で樽詰めしたのではないだろうか?

 いずれにせよ、樽の中では上から入れられてくる黒糖の重力によって隙間を埋めていくことになるので、樽内はぎっしりと黒糖で埋められていたと思われる。


  江戸時代に書かれた川柳に、
       須弥山しゅみせんのやうに出しとく黒砂糖
 というのがある。これは、樽から出された黒砂糖が、固まったまま立てて出しておいてある様子を言っている。須弥山とは、曼荼羅図などに描かれている古代インドの世界観を仏教が取り入れたもので、世界の中心にそびえるという空想上の高山のことである。樽は、上部の口径の方が広くなっているが、蓋をとって中身を樽から出せば、上部側が下になり山のように裾が広がった黒砂糖の塊となる。

 現在は、黒糖製造所で、切るか、千切るか、割るか、粉にして袋詰めにされて販売されている黒糖も、江戸時代は、はるばる奄美大島から鹿児島を経由して、大坂へ、そして江戸へと、樽のまま運搬され、樽の形状の大きな固まりの山型の黒砂糖が、販売店で鎮座していたと考えられる。江戸時代はそれを計り売りしていたのだ。
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