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砂糖の歴史(日本への伝播)

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最終更新日:2010年2月24日

 最近ではステビア、キシリトール等を甘味料とするお菓子が増加するなど、以前に比べ砂糖以外の甘味の種類は増えたと思います。しかし、その中でも砂糖ほど人類の歴史と深く関わってきたものはありません。前回に続き今回は日本への伝播・歴史について紹介します。

日本に砂糖が伝えられたのは中国から

 我が国における砂糖の歴史は古く、鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたものと考えられています。
 日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります(825年)。当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなく、むしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。

日本での砂糖の製造

さとうきび
 江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球(沖縄県)でした。1623年に琉球の儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。
 当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。
 一方、砂糖の代金として金・銀・銅が国外へ流出することについて幕府も危惧するようになり、1715年に幕府は輸入制限を行うと供に、砂糖の国産化の方針を打ち出し サトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します

近代精糖工場の誕生

 明治時代に入り鎖国制度は解かれ、不平等条約の下で輸入砂糖が国内に流れ込み、沖縄・奄美を除き、零細な和糖業は相当なダメージを受け壊滅しました。日清戦争後、台湾経済の中心として製糖業が位置付けられるとともに、機械化された大工場による近代製糖業が確立され、続いて国内にも精製糖の近代工場が建設、我が国の砂糖の生産体制が整備されていくこととなりました。
 しかし、太平洋戦争に突入すると、台湾で生産された粗糖を国内に輸送することが困難となり、国内の砂糖不足は深刻なものとなりました。

戦後復興と砂糖の役割

  終戦後、我が国には僅かな砂糖しかなく、1952年(昭和27年)まで配給制となりました。食料難の状況にあった国民にとって甘味は、非常に貴重な存在でもありました。
一方、その需要に対して配給される砂糖だけでは補えない状況であったため、一時期ズルチンやチクロなどの人工甘味料が使われましたが安全性の面から使用禁止となりました。
  やがて戦後の復興とともに砂糖の消費量は飛躍的に伸び、1人あたりの年間消費量は1973年(昭和48年)には29キロまでになりましたが、「肥満」「糖尿病」の原因や「キレる」など、砂糖に対する誤解、甘味の嗜好の多様化(微糖・甘さ控えめ等)などからか、現在は、20キロ程度となっています。
 砂糖は昔、薬として貴重な品であったばかりか、高価な贅沢品でしたが、現在では身近な生活必需品であり、あらゆる食品に使用され日本人の食生活を豊かにしています。この機会にもう一度安全で安心な自然食品として、そして健康に欠かせない砂糖の大切さを再認識していただければ幸いです。
 
 
(消費科学連合会「消費の道しるべ」(平成21年11月号)に掲載)
 
 
このページに掲載されている情報の発信元
農畜産業振興機構 企画調整部 (担当:広報消費者課)
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