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調査・報告(専門調査) 畜産の情報 2019年10月号

日本の和牛受精卵移植の進展とその「仕組み」づくり 〜全農ET研究所の模索から〜

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大分大学 経済学部 教授 大呂 興平

【要約】

 日本では1990年代以降、乳牛への受精卵移植(ET)による和牛生産が急増し、和牛の子牛供給を支えている。乳牛を借り腹とする和牛のETのためには、生産現場において、酪農家や肉牛農家、獣医師や移植師が密に関わる「仕組み」が不可欠である。本稿では、そうした仕組みを先駆的に模索し、世界に類を見ない受精卵供給体制を構築してきた全農ET研究所とその取り組みについて紹介する。

1 はじめに

 日本の肉牛生産においては、生産基盤の縮小に伴う構造的な子牛供給不足が深刻化している。肉牛の繁殖雌牛(以下「母牛」という)の頭数は2014年、統計を取り始めて以来初めて60万頭を割り、2016年には子牛価格が80万円を超える水準に達した(畜産統計)。空前の価格高騰を受けて、母牛頭数は2016年にようやく増加に転じたが、2019年の現時点でも子牛価格は70万円台という異例の高水準が続いている。
 こうした中で、和牛の子牛供給の手段として重要性を増しているのが、乳牛を借り腹とした和牛受精卵の移植による子牛生産である。受精卵移植(Embryo Transfer:以下「ET」という)とは、優秀な母牛(ドナー:以下「供卵牛」という)にホルモン処置を行って過剰排卵を起こした上で、人工授精を行い胎内に多数の受精卵をつくり、これらを採卵して代理母となる雌牛(レシピエント:以下「受卵牛」という)の子宮に移植することで子牛を得る技術である(図1)。なお、ETはと畜後の卵巣を用いる体外受精の方法でも取り組まれているが、本稿では、より普及率が高い体内受精卵の移植を対象とし、断りのない限り、ETとは体内受精卵の移植のことを指して議論する。また、和牛受精卵の移植は交雑種や和牛を借り腹とする形でも取り組まれているが、本稿では、最も一般的な、乳牛を借り腹として和牛の子牛を生産するケースを中心に議論を行う。
 

 一般に、1頭の供卵牛からは1年間に30個ほどの受精卵を採ることができ(平均的には、1回の採卵で7〜8個ほど、年間4回程度の採卵が行われる)、ETによる受胎率が50%としても、15頭程度の子牛が生産できる。理屈の上では、受卵牛である乳牛さえ確保できれば、ETにより急速な子牛の増産や改良が可能なはずである。2014年2月の畜産統計をベースにした全国農業協同組合連合会(以下「全農」という)の推計によると(図2)、わが国の乳牛と和牛の繁殖雌牛は合計で約200万頭(うち、乳牛約140万頭、和牛繁殖雌牛約60万頭)であるが、これらの母牛から、年間それぞれ50万頭の乳牛、23万2000頭の交雑牛、50万5000頭の和牛が生まれていた。このうち、約10万頭の乳牛に和牛受精卵が移植されて、4万2000頭の和牛の子牛が出生した。これは、この年に生まれた和牛頭数の8%に当たり、ETによる子牛生産が、逼迫する子牛供給を支えていることを示している。実際に、ET産子の年間子牛登記数は、1990年に2122頭であったのが、2000年には1万5907頭、さらに、2018年には4万7080頭と、飛躍的な増加を続けている(全国和牛登録協会)。こうしたETを通じた和牛子牛生産の可能性や課題について、社会経済的側面から考えてみたい。これが、本稿の出発点となる問題意識である。
 

 牛のETは、ホルモン処理による牛の過剰排卵、非外科的方法による受精卵の採取、採取した受精卵の凍結・保存、牛の発情同期化と受精卵の移植といった、複数の高度な要素技術から構成されており、進歩の余地が大きい先端的な技術体系である。このためETは、畜産学や獣医学の第一線の研究者の関心を引 きつけ、実用化や生産性向上に向けた膨大な研究が蓄積されており、それらの研究は明確に総括されている(例えば、金川1988、青柳2006、今井2017)。しかし、ETを現場で実現するための社会経済的視点からの検討については、十分には蓄積や総括がなされてはいないように思われる。
 実のところ、日本でETによる和牛子牛生産が定着・拡大するためには、実験室レベルでの技術的課題の克服のみならず、それを現 場で実行するための国や地域レベルの「仕組み」、やや大げさな言い方をすれば、「社会システム」の構築が不可欠である。通常、日本で乳牛を借り腹としたETにより和牛生産を行うには、優良な和牛の母牛(供卵牛)を保有する農家や組織から、獣医師が採卵、検卵、 凍結などして卵を生産し、それを移植師が酪農家の保有する乳牛に移植し、その産子を酪農家が分娩・哺育して肉牛農家などが育成するといった一連のプロセスが必要となる。このプロセスにおいて、例えば、供卵牛の飼養管理が悪ければ高品質の卵を多く採取できないし、高品質の受精卵を採卵できてもその後の凍結や解凍の過程で受精卵が損傷を受ければ、受胎率は大幅に低下する。さらに、ETの受胎率は酪農家の乳牛(=受卵牛)の管理にも大きく左右されるし、せっかく生まれた和牛のET産子も、ホルスタインと同じ個体管理では事故につながることも多い。つまり、ETでは、高度かつ複雑な技術を要するプロセスが、地域の肉牛農家や獣医師、移植師や、酪農家といった異なる主体によって担 われるため、これらの異なる各主体の関わり方をめぐる「仕組み」が、採卵個数や受精卵の品質、受胎率や分娩率といったETの成果に直結する。
 もちろん、近年では、ET技術を駆使して大規模に生乳と和牛の生産を行う企業的な乳肉複合経営も増えており、これらの経営では、単一経営体の中で専属の獣医師や移植師を確保してETに関わるすべてのプロセスを完結させている。しかし、日本の肉牛生産や生乳生産の大半は、今なお家族経営に担われている。日本の子牛生産基盤を議論する上では、地域の家族経営にいかにET技術が普及するのかが重要であり、そのためには、ETをめぐる仕組みが問われるはずである。
 本来、こうした検討には、多数の取り組み事例を基に、体系的な分析を重ねる必要がある。本稿では手始めとして、日本のETの展開を概観しつつ、ETをめぐる仕組みを先駆的に模索してきた全農ET研究所(以下「全農ET研」という)の20年間の歩みを紹介することで、検討の足がかりを築きたい。こう した目的から、筆者は2019年2月、全農ET研や十勝の酪農家を訪問して聞き取り調査を行った。
 以下、本稿では、日本のETの展開を既存の統計や資料から整理した上で、全農ET研の取り組みを、その仕組みの模索に焦点を当てて整理する。その上で、全農ET研の「新ETシステム」とそれに参加する北海道十勝地方の酪農家の種付け戦略を見る。これらを通じて、牛のET技術の広がりやその課題について、現時点での若干の見通しを与えたい。 

2 日本の牛受精卵移植の進展

 牛のETの技術体系は、北米で先行して確立されたものである。ETでは、能力の高い母牛を選んで多数の受精卵を採卵しそれらを一度に移植できることから、人工授精と比べて、高い能力を持つ個体をより短期間で選抜・増殖できる。家畜改良を加速するために、北米ではいち早くETの技術開発が進み、1970年代には商業ベースでの受精卵生産も拡大していった。
 日本でも1980年代前半に、国や県の畜産試験場や種畜牧場が中心となって現在のET技術体系の基礎が築かれ、生産現場での技術普及が急速に進んだ(金川1992)。農林水産省によると、1980年から1990年の間に、移植頭数は498頭から1万9865頭へと飛躍的に増えた。その後、移植用注入器や細菌感染防止技術の開発などにより受胎率も上昇し、移植頭数や産子数は2000年代前半まで、ほぼ右肩上がりで推移してきた(図3)。2000年代後半以降は、口蹄疫の発生やリーマンショックによる不況、東日本大震災などにより移植頭数や産子数がやや停滞したが、2010年代後半には再び増加しており、2014年時点での移植頭数は7万7197頭を記録している。なお、2016年以降、農林水産省は移植頭数や産子数の把握を中止しているが、その後の動向は、全国和牛登録協会によるET産子の登録頭数で推測できる。ET産子は2015年以降も急増しており、2018年には4万7080頭に達し、登録された子牛の数に占めるET産子の割合は9.7%に達している。受胎率から類推すると、2018年の移植頭数は11万頭を超えているものと推測される。現在では、北海道十勝市場や栃木県矢板市場など、酪農地帯に立地する家畜市場では、子牛市場に上場する和牛ET産子が2割を超える市場も珍しくない。
 


 現在、日本のETの実施頭数は、世界有数の規模に達している。表1は、国際胚移植学会が取りまとめた各国のETの実績を整理したものである。移植頭数で見ると、日本は米国に次ぐ実績数を誇り、その数はブラジルやアルゼンチン、豪州などの世界的な牛肉生産国の実績を大幅に上回る。これらの肉牛大国と比べて、日本ではETが行われる牛の割合が極めて高く、各国の牛1万頭に占めるET産子の割合は、米国が23.0頭、豪州が3.6頭であるのに対し、日本は195.3頭と突出している。また、日本では、利用されている受精卵の9割近くが肉牛のものである点も特徴的である。このように、日本は肉牛の生産現場において、ETが抜きん出て普及している国である。
 


 これは、日本の和牛をめぐる生産条件や市場条件を反映している。諸外国では、ETはもっぱら、種雄牛や繁殖雌牛といった種畜を改良・増殖する手段として用いられている。高い遺伝的能力を持つ種畜を作出・販売することがブリーダーにとっては重要だからである。ところが、日本では、和牛については、種畜のみならず、コマーシャル牛(食用を目的に生産・販売される牛)の生産にETが幅広く利用されている。和牛は極めて高価であり、例えば、豪州のアンガス種の子牛価格は数万円程度であるのに対して、日本の和牛の子牛は現在70万円を超えるし、かつての価格低迷時でもそれが30万円を下ることはなかった。しかも、和牛の子牛は、脂肪交雑や増体に関する遺伝的能力によって大きな価格差が生じる。このため日本の和牛ではコマーシャル牛の生産においても、ETを行って遺伝的能力の高い牛を生産する経済的メリットがある。例えば、ホクレン南北海道家畜市場に上場されたET産子の価格を検討した遠藤ら(2011)によると、2006〜2010年の和牛ET産子は人工授精による産子よりも10%程度、価格で5万円程度も高かった。こ うした特異な市場環境の下、日本では、乳牛を借り腹にしたETによる和牛コマーシャル牛の大量生産という、世界にも類を見ない生産形態が発展してきたのである。
 もちろん、ETは、和牛の改良にも大きく貢献している。例えば、北海道では、2015年に登記された子牛のうちET産子が全体の16%であったのに対し、繁殖雌牛として登記された牛のうちのET産子は全体の24%を占めていた(表2)。このことは、ET産子が高い遺伝的能力を持つものとして、人工授精の産子よりも高い割合で種畜として供用されていることを示している。もっとも、繁殖雌牛に登記されなかったET産子(表2では、81%に当たる8665頭)の大半は肥育牛として流通していると考えられ、このデータはET産子もその多くがコマーシャル牛として利用されていることを裏付けるものでもある。
 


 では、乳牛を借り腹とするETによる和牛生産は、今後も増えていくと見るべきだろう か。理屈の上で言えば、ETに利用可能な乳牛の「腹」はあり、しかも、それは増えつつある。簡単な計算をしてみよう。日本の乳牛の平均除籍産次数は3.32産であり、これを乳牛が生涯に受胎する回数として、乳牛が雄と雌を同確率で産み、事故率が10%と仮定すれば、現在の乳牛頭数を維持するためには、2.22産はホルスタインを受胎する必要がある(2÷0.9=2.22産)。従って、3.32産から2.22産を引いた1.1産分、全体の33%(1.1産÷3.32産=0.33)が、乳牛頭数を減らすことなく和牛の人工授精(交雑種生産)やET(和牛生産)に供用できる「腹」と言える。現在、1年間に乳牛から生まれる子牛の数は76万3100頭であり(畜産統計)、頭数に換算すれば、これに33%を乗じた約25万1800頭分が、和牛のETによって生まれ得る子牛の最大値ということになろう。実際にこれは、図2における、交雑種とET産子の数の合計と概ね符合している。さらに、近年では性判別精液の技術進展とともに、90%以上の高確率で雌牛を産ませられるようになり、またその受胎率も改善している。畜産統計によると、かつて、乳用種から生まれる子牛は「雌」よりも「雄」が多く、性比は「雌」100に対して「雄」105〜108で推移していた。ところが、2007年に108であった性比は、2013年に初めて100を割り、 2017年には78となっており、性判別精液が急速に普及しつつある。性判別精液の普及は、以前よりも少ない「腹」で、乳牛頭数が維持されるようになることを意味する。仮に、性判別精液が完全に普及しその受胎率も通常の精液と同水準となると仮定すれば、上記の計算式にこの90%を適用すれば、1.23 産(1÷0.9÷0.9=1.23)分のみのホルスタインの受胎だけで乳牛頭数を維持でき、残 りの2.09産分は肉牛生産に振り向けられる計算となるのであり、今後の性判別精液の普及次第では、ET産子を種付けする余地はさらに大幅に拡大する。
 もちろん、利用可能な乳牛の「腹」があっても、それが実際にETに利用されるかどうかは、個々の酪農家の判断に委ねられる。各酪農家は自らの経営や世帯の状況を踏まえて乳牛の種付けを決定しているのであり、和牛ETは、その受胎率や受精卵の価格、生まれ てくる子牛の価格や事故率、必要な労働投入や施設などを踏まえて、他の種付けの選択肢よりも有利だと判断されて初めて行われるはずである。そこで重要なのは、そうしたETの有利性は上述のように、ETをめぐり現場の酪農家や肉牛農家、獣医師や移植師が関わる仕組みが機能してこそ発現されるという点であろう。以下では、そうした仕組みを模索し、世界に類を見ない受精卵供給体制を構築 してきた全農ET研とその取り組みについて紹介したい。

3 全農ET研究所による受精卵供給の仕組みの模索

(1)全農ET研究所の概要

 全農ET研は、日本でいち早くETの実用研究を立ち上げ、商業ベースの受精卵生産を本格化させた機関である。1987年、全農は茨城県つくば市の飼料中央研究所に受精卵移植研究室を設置し、その後1999年には、受精卵生産を本格化させるために、北海道上士幌町に全農ETセンター(現在の全農ET研の前身、以下では単純化のため、過去もすべて 「全農ET研」と表記)を立ち上げた。全農ET研は帯広から北に約40キロメートル、十勝平野の北端の大雪山の麓にあり(図4、写真1)、総面積1700ヘクタールという日本一の面積の公共牧場であるナイタイ高原牧場に隣接している。この公共牧場には全農ET研の500頭の供卵牛(黒毛和種)と1200頭の受卵牛(主にホルスタイン未経産牛)が預託されており、豊富な飼料基盤の下で優れた個体管理を実現している。
 現在、全農ET研で働く職員の数は、北海道上士幌町の本場に32名(うち獣医師7名)、全国各地の支所も合わせると45名(うち獣医師11名)となっている。
 
 


 全農ET研は1999年の設立以来、受精卵供給個数を飛躍的に増やしてきた。図5は、全農ET研が本場で生産した受精卵の供給個数の推移を示したものである。受精卵供給個数は設立直後より急増し、2006年には1万個、2012年には2万個を突破して2018年は2万7014個に達した。受精卵の供給先も、北海道のみならず全国各地に広がっている。供給先のうち府県が占める割合は、2018年には61%に達しており、全国の受精卵の供給拠点として極めて重要な役割を果たしている。全農ET研の供給個数は、単一の組織と しては、日本はもとよりアジアでも最大であり、世界的に見ても北米の巨大企業に次ぐ規模とされる。
 


 全農ET研は、受精卵の移植頭数やその受胎率でも全国トップレベルにある。農林水産省は、ETの受胎率向上を目的として受胎率50%以上を達成した機関を2015年まで毎年公表していたが、全農ET研は達成機関の中でも移植実績数が突出して多い上、受胎率も60%前後で推移し全国上位に常にランクインしてきた。また、全農ET研はETに関わる一大研究拠点にもなっており、全国から優秀な研究者や獣医師が集まり、受精卵の簡易な解凍方法や、受精卵のチルド保存技術など生産現場で広く活用される革新的技術が開発されてきた。さらに2016年には、現場でETを担う人材を育成すべく、一線級の移植師を養成するための「繁殖義塾」が設立された(青柳2017)。繁殖義塾には最先端の技術と豊富な現場経験を求めて全国各地から研修生が集まっており、改修された廃校施設を拠点にして研さんを重ねている。廃校の体育館に牛の保定枠が並んでいたのは興味深い光景であった(写真2)。
 
 

(2)全農ET研究所における受精卵の生産・販売事業の展開

 全農ET研では、受精卵を生産・供給するためのさまざまな仕組みを構築し、大幅な生産拡大を実現してきた。ここでは、それらの取り組みを整理して紹介したい。

ア 本場での採卵
 全農ET研が本場で生産する受精卵は、約500頭の供卵牛から採卵されている。個体差は大きいが、1回の採卵で1頭の供卵牛から平均7個の正常受精卵が採れ、年に4回採卵されると計算すれば、1年間でおよそ1万4000個の受精卵が生産されることになる。採卵は毎週月、水、金曜日の朝に行われており、筆者もその様子を見学できた。当日は採卵予定の十数頭の牛が採卵施設内の10基の保定枠に1頭ずつ搬入され、4名の獣医師が 1頭当たり15分ほどかけて手際よく採卵を行っていた(写真3)。採取された受精卵はすぐに隣の検査室に移され、技師が顕微鏡を覗きながら個数や品質を評価した上で、新鮮卵の供給先や凍結するかといった処理方法をその場で決定していた(写真4)。受精卵には子牛市場で人気のある優良な血統のものが揃えられ、子牛市場価格を参考にしながら父母の血統に基づいて価格が設定されている。受精卵は、凍結卵や後述のチルド新鮮卵として、北海道はもとより全国各地へと供給されている。
 

 


イ 本場での移植による妊娠牛供給
 もっとも、凍結受精卵を全国に供給するだけでは、生産現場に受精卵移植に熱心な獣医師や移植師がいない限りは、なかなかETは行われず、その普及にも限界がある。そうした中で、全農ET研は、採卵した和牛受精卵の一部を、ナイタイ高原牧場に預託飼養している未経産の乳牛に移植し、ET妊娠牛として全国に供給している。これらの未経産牛は、ホルモン処置による発情同期化が行われて、上記の月、水、金曜日に採卵されたものが、当日のうちに新鮮卵で移植される。損傷の少ない新鮮卵が用いられていること、受卵牛である未経産牛がナイタイ高原牧場で適切に預託管理され、全農ET研の優秀な獣医師・移植師が選畜および移植に関わっていることなどからその受胎率は70%を超えており、移植頭数や受胎率は、全国随一の実績を誇る。
 このET妊娠牛生産には、全農ET研が所有する未経産牛にETを行い妊娠牛を販売する「センター生産方式」と、全農ET研が他の酪農家が所有する未経産牛を預かりそれを妊娠させて返す「預かり受卵牛方式」がある。表3は、各方式による生産頭数と、その販売先の内訳を見たものである。全体の56%が「センター生産方式」、44%が「預かり受卵牛方式」で生産されているが、いずれの方式でも妊娠牛の出荷先は北海道外が約半数を占めており、全農ET研が全国の酪農家に向けてのET妊娠牛の重要な供給拠点となっているこ とがうかがえる。筆者が見学した時も、「預かり受卵牛方式」による他県の未経産牛が舎飼いされ、移植に向けて待機していた(写真 5)。
 

 

 ただし、全農ET研におけるET妊娠牛の供給頭数は2000年代前半以降、1200頭前後でほぼ横ばい状態にある(図6)。これは預託先の牛舎の収容頭数に原因があり、収容頭数が現在の供卵牛500頭と受卵牛1200頭で ほぼ限界に達しており、それを超えて受精卵や妊娠牛を供給するためには、センター外に新たな生産基盤を求める必要があった。
 

ウ 農家採卵による受精卵生産
 こうした中で、全農ET研が2014年より開始したのが、「農家採卵」の事業である。農家採卵は、農家が飼養している優良な繁殖雌牛に、全農ET研の職員が庭先で過剰排卵措置を施して採卵を行い、その受精卵を全農ET研が買い取るものである。農家採卵では、通常、分娩後2〜3カ月の母牛に1回の採卵が行われる。仮に、1頭の供卵牛につき1回の採卵で8個の受精卵が得られ、受精卵が1個3万円で買い取られるとすれば、1回につき24万円の収入になる。採卵に供された母牛も適切に処置されて、牛の状態が良好であれば、採卵後、短期間で通常通りに受胎するため、繁殖農家にとっては、最短で半月程度の追加的な空胎期間だけで、通常の子牛生産・販売に加えて受精卵の販売でも大きな追加的所得が得られ、資金繰りも改善する。
 こうした農家採卵は急速に増加しており、事業が始まった2014年には北海道のみで3195個採卵されていたのが、2017年には17道県の41のJAにおいて1万5087個へと急増した(図7)。現在では、農家採卵は全農ET研の本場がある北海道よりも府県のほうが実績が多くなっており(図7)、府県では、北日本分場(岩手県滝沢市)、東日本分場(茨城県笠間市)、九州分場(福岡市)といった全農ET研の各分場の職員が管轄地域を走り回り、全国各地で農家採卵を行っている。もっとも、採卵をしても、それを利用する農家がいなければ、受精卵供給は増加しない。こうした農家採卵の急増は、農家採卵された受精卵を、新鮮卵の状態でそのまま地域の別の農家の受卵牛に移植するという、後述のシンクロETシステムとの両輪によって実現されたものであった。
 

エ 新ETシステムの展開−チルド新鮮卵の広域供給と発情同期化
 近年の受精卵供給の増大に大きく寄与した全農ET研の仕組みが、本場で採卵された受精卵をチルド状態で広域供給するとともに、その到着に合わせて多数の受卵牛の発情を同期化させておき一斉に移植するという、新ETシステムである。従来の全農ET研の受精卵供給は、受精卵やその妊娠牛を販売して終わりであったが、新ETシステムでは、全農ET研の職員が農家に出向き、多数の受卵牛への発情同期化から採卵、移植までを行う点に最大の特徴がある(出田2016)。
 この新ETシステムでは、チルド状態での新鮮卵の広域供給が鍵技術となっている。牛の受精卵のほとんどは凍結状態で広域流通しているが、凍結の過程で受精卵は必ず損傷を受けて受胎率が下がる。他方で、新鮮卵は凍結受精卵よりも安定した受胎率が得られるが、安定した受胎率を得るには、採卵後できるだけ早期(採卵当日)に移植を行う必要があり、その広域供給は困難であった。こうした中、全農ET研では牛受精卵のチルド状態での保存液を開発し、新鮮卵のままでの最長1週間の品質保存を可能にした。これにより全農ET研は、本場で採卵した新鮮卵を、九州でも採卵当日の夜、または翌日の第1便には配達できる体制を整備し、日本全国にチル ド新鮮卵を供給できるようになった。
 他方、新鮮卵を移植するには、それに合わせて受卵牛の発情周期を同期化しておく必要もある。そこで、全農ET研では、チルド新鮮卵が到着するタイミングで受卵牛への移植ができるよう、あらかじめ農家に出向いて、多数の受卵牛に発情同期化のホルモン処置を行っている。具体的には、図8のように、近隣の十勝管内であれば本場の採卵日(月、水、金)、本州や九州であれば、本場採卵の翌日(火、木、土))に移植が行えるよう、全農ET研の職員がその18日前に農家に出向き、移植可能な受卵牛を選定した上で(選畜)、それらの牛に膣内留置型の黄体ホルモン製剤を処置しておく。移植の9日前には農家がこれを牛から抜去し、移植の1日前(前日)〜当日には、全農ET研の職員が再度、各農家に出向いて超音波画像診断により受卵牛の黄体を確認して移植の可否を最終判断する。移植の当日には、チルド受精卵の到着とともに、移植可能と判断された牛に、全農ET研の移植師により一斉に移植が行われる。
 

 この新ETシステムは2009年に十勝地方で先駆的に始まり、その後、全国にも広がった。ダメージが少ない新鮮卵が用いられることに加え、受卵牛の選畜やホルモン製剤の投与、黄体の確認、移植といった各作業において熟練した全農ET研の職員が一貫して関わることから、通常のETよりもかなり高い60%を超える受胎率が実現されて高く評価 されている。

オ  シンクロETシステム−地域内での農家採卵と移植の仕組み
 さらに、2015年からは、上述の農家採卵と新ETシステムを組み合わせて、一つのJAほどの地域的範囲において、肉牛農家の庭先で採卵した受精卵を、その当日のうちに別の酪農家や肉牛農家の乳牛や交雑牛、和牛などに移植するという、「シンクロETシステム」が始まっている(図8)。
 シンクロETシステムは、農家の庭先にありながらも、採卵から移植までの作業を、同日にすべて全農ET研の職員が手掛けるもので、その受胎率も高い。こうした取り組みを本格的に行っている地域の一つが、佐賀県唐津市の唐津農業協同組合(以下「JAからつ」という)である。JAからつの広報誌によると、同JAは2015年11月に初めて全農のシンクロETシステムに参加した。当日には、全農ET研の職員が結集し、地域内の肉牛繁殖農家が所有する31頭の繁殖雌牛を供卵牛として、過剰排卵処理を行った上で1頭当たり約9個の受精卵を採取した。移植可能な受精卵は全農ET研がすべて買い取り、同時に発情同期化をしていた111頭の受卵牛(乳牛73頭、和牛29頭、交雑牛9頭)に、この受精卵の移植が行われ、それでも余った受精卵は凍結された。その後も、JAからつでは全農のシンクロETシステムの下でETによる和牛生産を継続しており、2017年には2、3カ月に1回、合計で306頭のETが行われ60%近い受胎率が得られている。
 こうしたシンクロETシステムは、岩手県や神奈川県など全国各地で取り組まれており、移植頭数も2016年に267頭であったのが、2017年には2599頭へと急増している。全農ET研は、選畜や発情同期化、前日の黄体確認や当日の採卵・移植のたびに、最寄りの分場の職員とともに、全国の現場に出向いている。
 以上のように、全農ET研では受精卵供給やその移植をめぐる仕組みを模索しており、そうした仕組みの革新とともに、今日まで受精卵供給の大幅な拡大が実現されてきた。

4 北海道・十勝の新ETシステムと酪農家

(1)北海道・十勝管内における新ETシステム

 こうした全農ET研の新しい仕組みに、酪農家はどのように参画しているのだろうか。一般に、酪農家では乳牛の種付けにおいて①和牛ET(和牛生産)のほかに②ホルスタインの性判別精液の人工授精(後継牛の乳牛生産)③ホルスタインの精液の人工授精(雌が生まれれば後継牛、雄が生まれれば乳用種雄牛の生産)④和牛の人工授精(交雑種生産)など─の選択肢があり、自らの経営や将来の展望を踏まえてそれらが選択されている。従って、ETの広がりやその可能性を検討するには、各酪農家がどのような論理と動機でETを選択しているのかという、いわば「種付け戦略」を理解する必要がある。
 ここでは、全農ET研のお膝元の十勝地方で先駆的に取り組まれてきた新ETシステムと、それに参加してETを行う酪農家について見る。十勝地域は全国有数の酪農地帯であり、和牛子牛市場でもET産子が全体の2割程度を占めている。
 十勝地域の新ETシステムでは、全農ET研と管内の各JAが連携し、域内の酪農家を結び付けている。まず、各JAは地区内の酪農家に働きかけてETの希望を取りまとめる。それを受けた全農ET研は、獣医師が希望農家を訪ねて受卵牛を選畜し、発情同期化のホルモン処置を行う。これらの受卵牛は順調にいけば18日後に移植適期になるため、移植前日に全農ET研の獣医師が再訪して超音波で黄体を確認した上で、翌日、本場で採卵されたばかりの新鮮卵を全農ET研の移植師が移植している。現在、十勝管内の酪農家の約3%に当たる約50戸が新ETシステムに参加 しているが、新規に参加する農家がある一方で、成績の伸び悩みや離農により離脱する農家もあり、参加農家数はそれほど増減していない。

(2)新ETシステムに参加する酪農家とその種付け戦略

 筆者は新ETシステムに参加し和牛ETを行う酪農家3戸について、その経営や世帯の概況と、種付け戦略、新ETシステムに加わりETを行う理由や今後の方針などについて調査を行った(図4、表4)。調査したのは十勝の酪農家としても規模が大きい3戸のみであり、これらの事例だけで全体を論じることはできないが、それでも酪農家の種付け戦略の一端を見ることはできよう。以下では、調査した酪農家A〜Cについて、経営の概要を踏まえた上で、その種付け戦略やETの動機、将来の見通しなどについて説明する。
 

ア 農家A
 農家Aは、経産牛160頭を飼養し、フリーストール体系で搾乳ロボットを揃えた大規模酪農経営であり、経営主と妻、1人の従業員の3名が飼養管理に従事している。95ヘクタールの経営耕地のうち45ヘクタールに牧草、50ヘクタールにデントコーンを作付けしている。農家Aは生乳販売で1億1000万円、ETによる子牛販売を中心とする副産物販売で3000万円弱を得ている。副産物販売では、交雑牛や乳用種雄は初生牛として1週齢程度で販売されているが、ET産子は10カ月齢前後まで育成され(写真6)、2017年には38頭、2018年には28頭が販売された。
 

 農家Aでは、まず、毎年60頭ほど導入される未経産牛の8割に、新ETシステムによるETが行われている。未経産牛の多くに和牛受精卵を妊娠させるのは、和牛はホルスタインよりも小さく生まれるため初産でも難産せず、乳牛の事故リスクが小さいためだという。新ETシステムによる受胎率は高く、農家Aの初産牛の受胎率は70%を超える。他方、2産目には、後継牛確保のために、乳牛の大半に性判別精液とホルスタインの通常の精液を種付けするが、なかなか受胎しない牛には和牛ETが試みられる。全農の新ETシステムによるETは人工授精より受胎率が高いことが、その最大の理由である。3産目以降は牛ごとに判断するが、発情が来ないものにはETや和牛人工授精を試みている。
 こうした種付け戦略のもと、この農場では年間に50頭前後のET産子が生まれているが、子牛の事故率は極めて高く、2018年には19頭が死亡した。和牛の子牛は乳牛よりも病弱である上に、哺育の担当者が経験豊富な母から妻に変わったこと、極寒時や寒暖差が大きい時に出産が集中したことがその原因という。他方で、十勝の子牛市場には自分の子牛を買ってくれる購買者がいるといい、2018年の子牛販売価格は83万円と高い。その意味でも、子牛死亡による機会損失は大 きく、ET産子の事故率低減は重要な課題と いえる。
 農家Aは、2000年前後より近隣の移植師に依頼して凍結受精卵によるETを行っていたが、受胎率の低さが難点となっていた。こうした中、農家Aは2009年、新ETシステムを立ち上げようとしていた全農ET研の職員から熱心な説明を受け、システムへの参加を決めた。新ETシステムでは、多数の牛を保定して発情同期化をかけ、後日、再び一斉に保定し黄体確認、移植するという手間が必要になるが、その受胎率は通常のETよりもかなり高い。ただし、農家Aは、新ETシステムは近隣の農家にはそれほど大きくは広がらないと見ている。牛を保定し発情同期化したり黄体確認したりする作業に手間が掛かるし、ET産子の哺育は難しい。そのうえ、農家Aの所属するJAは耕種に力を入れており、新ETシステムへの勧誘には必ずしも積極的ではない。地域の多くの酪農家にとっては、ホルスタインや黒毛和種の人工授精のほうが気楽と考えており、地域のJAからの積極的な働きかけやサポートがなければETはなかなか広がらないという。

イ 農家B
 農家Bは、2018年4月に経産牛80頭規模のつなぎ牛舎から240頭規模のフリーストール牛舎へと移行したばかりであり(写真7)、2019年2月の調査時点で145頭の経産牛を飼養するとともに、育成牛も95頭飼養する、急速な拡大途上にある農家である。また、牧場体験で年間4000人近い修学旅行生を受け入れるなど、観光農場にも力を入れている。農家Bは、経営主と妻、父の3名の家族労働力に加え、4名の雇用労働力を確保して飼養管理にあたっており、55ヘクタールを採草地として利用し、夏期は育成牛を町営牧場に預けている。つなぎ牛舎で飼っていた2016年は、農家Bでは生まれた81頭の子牛のうち、和牛ET産子が23頭、交雑種が12頭で、残りがホルスタインの雄および雌であった。しかし、フリーストール牛舎を建設した直後の2019年時点では、農家Bは高能力の乳牛を短期間で確保することを最優先した種付け戦略を採用している。
 

 農家Bでは、未経産牛については、すべて乳牛ゲノム解析サービスを用いて潜在的な遺伝的能力を判明させた上で、未経産牛のうち指数上位75%の個体には性判別精液を人工授精し、これらを後継牛として確保している。他方、指数下位25%の個体には、和牛のETを行い、初妊牛として、十勝の家畜市場で1頭100万円を超える価格で売り払い牛群から外している。
 農家Bは2産目以降も、8割程度の乳牛に性判別精液やホルスタインの精液を人工授精して後継牛を確保しており、受胎しないものについて和牛の人工授精を行い、それでも受胎しないものに限り、より受胎率の高いETを試みている。その結果、農家Bは2018年には、酪農副産物として、乳用種雄牛35頭、交雑種48頭、和牛4頭を初生牛として販売していた。農家Bの地域では、町内の酪農家の初生牛を提携する肥育経営が生後数日中に買い取り育成・肥育する仕組みがJAや行政の主導で構築されており、乳用種雄、交雑種、和牛の違いにかかわらず、初生牛がスムーズに引き取られるようになっている。このように哺育・育成に大きな負担がないことが、農家Bがつなぎ牛舎の時代から和牛ETに積極的に取り組んでいた理由でもあったという。
 農家Bも新ETシステムの立ち上げ時からの農家であり、熱心な全農ET研の職員との対話の中でシステムに加わることを決めていた。もっとも、農家Bでは、フリーストール牛舎への移行後、ET利用が大幅に減っている。これは、後継牛を多数確保するという上記の理由だけでなく、新ETシステムでは牛をつなぐ作業が追加的にかかることも背景にあるという。新ETシステムでは、受卵牛の選畜や注射、ホルモン剤の抜去、黄体確認、移植などで5回は保定する必要があり、フリーストール牛舎ではそれが追加的な作業負担となりやや面倒であるという。

ウ 農家C
 農家Cは、つなぎ牛舎で経産牛80頭を飼養する経営であり、経営主と妻、息子の3名が飼養管理に従事している。32ヘクタールの経営耕地のうち、デントコーンを15ヘクタール、牧草を17ヘクタールに作付けしている。農家Cの飼養頭数は農家AやBよりも小さいが、投資は抑えられ、全国トップレベルの高能力の乳牛が揃っており収益性は高 い。ET産子も自ら哺育・育成しており、2018年は22頭を販売している。このほかに、農家Cは交雑種を妊娠した初妊牛5頭、育成牛5頭、乳用種雄の初生牛18頭、交雑種の初生牛2頭を販売しており、2018年に農家Cは、生乳販売で7000万円弱、和牛子牛販売だけで1600万円を上げている。
 農家Cの場合も、未経産牛についてはゲノム解析データに基づき、約25頭のうち、指数上位の15頭ほどにホルスタインの性判別精液を交配している。指数中位の5頭ほどには和牛受精卵のETが行われ、生まれた子牛は自経営で哺育・育成される。他方、さらに指数が劣る5頭ほどは、和牛精液と交配して妊娠牛として売り払い、牛群から外してい る。
 農家Cは2産目以降は、ゲノム的に特別に優れたものについては性判別精液を使うが、それ以外の乳牛には、その約半数にETを行っている。一般に、和牛の子牛は出生時の体重が小さく病弱であるが、2産目以降に生まれる子牛は出生時体重が大きく生まれやすく、事故のリスクも少なくなるという。その点でも、農家Cは、2産目以降の和牛ETに魅力を感じている。農家Cでは、和牛のET産子は当初は下痢による事故が多かったが、乳牛の子牛よりも丁寧な観察を徹底し、異変に気づいたらすぐに獣医師を呼ぶなどしてこれを克服したという(写真8)。現在、農家Cの事故率は低く、近年では死産もほとんどない。現在も乳用種雄や交雑種は初生牛の状態で販売しているが、高い付加価値がつく和牛だけは自ら育成している(写真9)。
 



 農家Cは、農家Aや農家Bとともに、新ET システムにごく早い段階から参加していた農家である。農家CがETを開始したのは2000年ごろであり、当初は凍結卵を利用していた。しかし、全農ET研の職員と話す中で、全農ET研で採卵した新鮮卵をそのまま職員が移植すれば受胎率が上がり受精卵利用も大幅に広がるのではないかという話になり、それが現在の新ETシステムの構想につながっていったという。農家Cは毎月3、4頭にETをしており、その受胎率は8割近い。農家Cは、今後の性判別精液の普及とともにETが増える余地はあるが、他方で、乳牛の受胎率が高くかつ事故率が低く、後継牛が確保できている農家でない限りは、十分には増えないと考えている。また、和牛の哺育に問題を抱える農家も多く、その点にもET普及の制約があるというのが、農家Cの見方であった。
 以上の3戸の酪農家は、それぞれ異なる種付け戦略を採用している。各事例がどの程度、十勝全体の酪農家にも当てはまるのかどうかについては留保が必要であるし、そのためにはETと人工授精に関する収益性の詳細な比較も必要であろう。しかし、この3事例だけでも、ETの普及をめぐる、いくつかの重要な論点が示唆されるように思われる。
 各事例に共通するのは、和牛のETは、あくまでも酪農部門における副産物生産と位置付けられており、従って、酪農家がETを行うかどうかは、乳牛の牛群改良や受胎率改善、施設の変更や規模の拡大といった、主部門たる酪農における意思決定の下位に置かれているという点である。いかに和牛子牛が高価格であっても、酪農家にとっては生乳販売が最も重要な収益部門である。乳価も近年は上昇しているし、副産物である交雑種や乳用種雄牛、育成牛の価格も上昇している。しかも、ETは通常の人工授精と比べて追加的な作業や費用がかかる上、生まれてくる和牛の子牛は病弱で事故のリスクも高い。こうした中で、和牛子牛が空前の高騰を続けている割には、酪農家にとって和牛のETに対する関心はそれほど高くはないし、ETを行っていても産子の事故率が高い経営も多い。もっと も、このことはETの導入やそれによる収益改善の余地が大きいことを示すものでもあり、実際に大きな所得を得ている農家も存在する。
 従って、酪農家に新ETシステムによるETが浸透するためには、人工授精をしのぐ高い受胎率が安定的に実現されることに加えて、地域内での生産者への積極的な働きかけや、ETに伴う追加的負担の軽減、特にET産子の出生後の事故率低減の取り組みが、大きな鍵となるように思われる。調査した酪農家が、いずれも、全農ET研の職員の熱意に動かされてシステムに加わった農家であったのは決 して偶然ではない。また、和牛子牛の個体管理に未熟な酪農家が多い中で、初生牛を地域の肥育経営がまとめて引き取り哺育・育成するといった、農家Bの地域の取り組みはETの普及に有効であったに違いない。

5 おわりに

 日本の牛のETは、1990年代以降、乳牛を借り腹とした和牛のコマーシャル牛生産の手段として独自の発展を遂げ、世界に類を見ない高い水準で生産現場に普及してきた。それを先導した全農ET研は、受精卵の凍結法や解凍法、チルドでの保管法などの革新的技術を開発し優良な受精卵を供給していただけではない。全農ET研は、乳牛に受精卵を移植して妊娠牛として供給したり、チルドによる迅速な配送体制を構築したり、全農ET研の供卵牛と地域の酪農家の乳牛とを発情同期化させて新鮮卵を一斉移植したりするなど、ET技術が高い成果を上げるための仕組みを同時に作り上げてきた。以下では、本論を踏まえ、今後のETによる和牛生産の制約と可能性について検討しておきたい。
 現在のETによる和牛生産の制約を考える上で重要なのは、第一に、全農ET研の受精卵供給の仕組みは、自社の抱える優秀な獣医師や移植師といった人材に強く依存している点である。妊娠牛供給や新ETシステム、シンクロETシステムといった、全農ET研の受精卵供給を支える仕組みでは、いずれも、採卵、発情同期化、移植などの各プロセスを全農ET研の獣医師や移植師が担うことで、高い受胎率が担保されている。これはET技術はその各プロセスで失敗のリスクが大きく、受胎率が属人的な要素に決定的に左右されるという現状を反映している。全農ET研の獣医師や移植師は、近年の新ETシステムやシンクロETシステムの広がりとともに、全国の産地に駆けつけて活躍の場を広げているが、このことは、ETを受け入れる産地側にそれを担う人材や仕組みが十分に存在しないことの裏返しでもある。全農ET研が「繁殖義塾」を創設して全国各地から研修生を募り、実践経験豊富な優秀な移植師の養成に乗り出しているのも、現在の仕組みを支える人材の確保が喫緊の課題であることが背景にある。今後のETのさらなる供給拡大にとっては、ETを支える優秀な獣医師や移植師の量的確保がその制約になりかねない。
 ET生産拡大の制約を考える上で重要な第二の点は、酪農家にとって和牛のETは生乳生産の副産物販売の一手段に過ぎず、酪農家が強い動機や関心を持っているとは限らないという点である。ETの受胎率が高くても、実際にETを導入する農家が限られたり、ET産子が適切に哺育・育成されずに十分な収益が得られないようなケースは少なくない。このことは、ETのさらなる普及には、高受胎率の実現だけでなく、酪農家へのET導入に関する積極的な働きかけや、和牛の哺育・育成技術の周知、初生牛の引き取り体制整備による負担軽減といった対応が重要になることを意味している。
 以上のような制約は、和牛ETの今後のさらなる普及の鍵が、受精卵を受け入れる産地側の対応にもあることを示している。全農ET研のマンパワーに限界がある中で、産地自身がETに熟達した獣医師や移植師を擁し、例えば、全農ET研のチルド新鮮卵供給と連動して発情同期化や移植に取り組むことができれば、より効果的な生産が可能なはずである。また、酪農家の副産物生産として和牛ETを働きかけたり、哺育の技術指導を行ったり、ET産子を受け入れて哺育・育成するキャトルステーションのような体制を整備したりする努力は、まさに産地側に求められるものであろう。
 全国的に和牛子牛が高騰し、母牛頭数も伸び悩んでいる中で、酪農が盛んな地域では、ETをテコに子牛生産拡大を実現する可能性が広がっている。ETをめぐる「仕組み」は、受精卵の供給側だけでなく、それを受け入れる産地側にも問われている。筆者も本稿の予察を足掛かりとしつつ、各地のETの展開について社会経済的側面からの検討を深めていきたいと考えている。

【参考文献】
・青柳敬人(2017)「生産基盤維持・強化のための全農ET研究所繁殖義塾の取り組みについて」畜産コンサルタント 53(9),33-35。
・青柳敬人(2006)「ウシ胚移植関連研究の方向性と胚移植における受胎率に影響する要因について」家畜人工授精(232),43-49。
・出田篤司(2016)「ET技術で酪農経営の収益向上を−新ETシステムとチルド受精卵活用のポイン ト」酪農ジャーナル69(3),22-24。
・今井敬(2017)「牛における胚移植関連技術の変遷」臨床獣医35(7),49-55。
・遠藤聖・高橋茂・堂地修(2011)「ホクレン北海道家畜市場における黒毛和牛種受精卵産子の上場頭数および価格の推移」北海道牛受精卵移植研究会会報 30,41-45。
・金川弘司(1988)『牛の受精卵(胚)移植』近代出版。
・金川弘司(1992)北海道における牛受精卵移植―10年の歩み、獣医畜産新報 45(12),921- 927。
・迫田耕二(2007)酪農と肉用牛経営の連携による受精卵移植を活用した地域畜産の展開、びーふキャトル(9),28-31。

【付記】
 浦川真実様、波山功様をはじめとする全農ET研究所の皆様には、調査の趣旨をご理解頂き、資料提供や現地調査に多大なるご協力を賜りました。また、3戸の酪農家の皆様からも、ご自身の経営について詳細にお話し頂くとともに、快く現場を案内して頂きました。北海道酪農畜産協会の山本裕介様、森本正隆様、菊地誠市様、酪農学園大学の今井敬様からも、貴重な資料やご助言を賜りました。心より御礼申し上げます。
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