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さつまいもでん粉産業の変遷(2)

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最終更新日:2011年8月8日

さつまいもでん粉産業の変遷(2)

2011年8月

農業情報アドバイザー 下野 公正

(4)大正時代におけるさつまいもでん粉

 大正期に入り、でん粉の消費も活発になってきた。特に、第一次世界大戦が勃発し、好景気が到来したことから、でん粉の需要も増大した。

 当時の原料さつまいもの価格およびでん粉の価格は表1のとおりである。
 
 
 また、でん粉を利用した水飴の製造に、新技術としてでん粉に酸を加え加水分解して製造する酸糖化法が採用されるようになった。この方法は効率的で、かつ製造された水飴は無色透明で、ほぼ水分と糖質しか含んでいないものであった(関氏「甘藷と澱粉百年の歩み」)。

 当時は、我が国のでん粉も消費の伸びに対し生産が伴わなかったことから、外国産でん粉を輸入していたが、大戦の影響で外国におけるでん粉が不足し、逆に国産でん粉を輸出するようになったようで、でん粉製造に拍車がかかったのであろう。

 しかし、これも大戦が終結すると間もなく世界的な大恐慌が発生し、消費の減退により生産過剰から価格は暴落し、でん粉製造業者も廃業が続出することとなった。

 その後、当時の政府は、国内でん粉産業の普及発展を図る目的で、外国から輸入する各種でん粉に対する関税措置を講じており、大正末期には、でん粉に対する保護関税制度を強化したことにより、閉鎖された工場もようやく稼動し始めた。

 大正末期においては、国内産業の保護と輸出促進を目的として原料関税の引き下げ、製品関税の引き上げが図られたことから、完全に関税自主権時代に入った。その後大正15年に実施された関税改正は、第一次大戦中あるいは戦後に発達した産業の製品に対する関税率引き上げを主とした保護主義的な色彩が強いものであったということである(税関百年史(日本関税協会)及び図説日本の関税(藤本進著))。

 これにより、でん粉事業もようやく軌道に乗り産業として発展した。
 
 
 明治・大正時代の鹿児島県における畑作物の栽培状況は表3のとおりである。さつまいもの栽培面積が最も多く、耕地面積の25%で作付けされており、さつまいもの生産が鹿児島県の農業の中で極めて重要な位置を占めていることから、さつまいもでん粉の販売状況が農家の経済にも大きく影響したものと思われる。
 
 

(5)昭和初期におけるさつまいもでん粉とでん粉工場

 政府は、大正時代に引続き、外国から輸入される各種でん粉に対応し、でん粉産業の普及発展を図るため、関税率の改正を大正15年3月29日付で公布した。また、引続き昭和2年3月29日にはタピオカでん粉の関税率を改正、さらに昭和7年6月1日には、タピオカ、セーゴ(サゴ)、小麦粉、コーンスターチ、ばれいしょでん粉が関税率改正により防遏された。昭和12年の日中戦争以降は、さらに、輸入品の全ての物資に対し、臨時措置法に基づいた輸入制限が強化されたことから、ついに外国産でん粉は、ほとんど輸入途絶の状態となった。このことは、でん粉企業にとっては、明るい見通しとなったと考えられる。特に、さつまいもの生産地である鹿児島県においては、さつまいもの栽培とでん粉産業にとって、さらなる発展と存立してゆく意義、可能性があると考えられたであろう。

 国内経済状況は、大正時代からの経済不況が回復しないまま、昭和時代に突入した昭和4年、ニューヨーク、ウォール街の株式市場の大暴落に端を発した資本主義経済の大恐慌が始まり、昭和5年には日本にも農業恐慌の波が押し寄せ、農村の不況により農業経済は困窮のどん底にあえいでいた。また、この時期、繭、米価が急落したことから政府の救農経済対策が求められていた。そこで政府は、農業経営の合理化を図り、農村工業を拡充することにより、農家所得の安定化をすすめ、農村の購買力の向上をねらった対策を樹立した。その中で、鹿児島県におけるさつまいもは、特産品であり、これを原料としたでん粉、でん粉飴及び燃料政策としての無水アルコールの製造は、農村工業として最も必要なものであったと言える(前述本坊氏卆寿記念誌)。

 このような中、日本澱粉工業株式会社は国に即応し、昭和11年、会社を創立し、でん粉工場を7カ所(鹿屋、古江、栗野、伊集院、川辺、知覧、小林)に整備し注目を浴びた。
 
 
 九州地域、特に南九州にさつまいもを原料としたでん粉工場の本格的な立地が始まったのは、昭和7年から昭和8年頃で、広島県からの製造業者も進出してきており、県内の畑作地域に大小のでん粉工場が整備された。

 それに影響を受け、農業協同組合や有志による企業的な工場の建設が進められた。しかし、昭和13年頃からは、でん粉製造に代わって航空燃料用無水アルコール工場の建設が見られるようになり、昭和15年になると、でん粉類の統制のため、工場の新設はできなくなった(鹿児島県澱粉協同組合連合会資料)。

 昭和14年4月12日、米穀配給統制法の公布、また同年10月18日価格統制令が公布され、甘しょでん粉価格は統制価格となった。なお、昭和15年8月14日には、澱粉類配給統制規則が公布され、9月20日から施行されたことから、でん粉については、同時設立された日本澱粉株式会社が統制株式会社となって、でん粉の取扱いを行うようになった(以上官報)。

(6)太平洋戦争後のでん粉産業とでん粉の生産

 昭和20年8月、太平洋戦争は終結した。戦争による日常の生活物資の不足は大変なものであった。中でも、食糧は際立って窮迫しており、でん粉も主食として配給の必要性に迫られ、昭和23年からでん粉の取扱い業務は、食糧配給公団澱粉局が所管することとなった。しかしながら、次第に食糧事情も緩和してきたとし、昭和26年3月30日、政令「第59号食糧配給公団解散令」(官報第7264号)により、当公団は廃止された。その結果でん粉の原料であるさつまいも、でん粉ともに統制と公定価格が外され、自由商品扱いとなった。なお、終戦直後、昭和21年の全国でん粉工場の設置状況は表5のとおりであり、でん粉、生産量のシェアでみると、関東地区が53%と最も高く、九州地区23%、中部地区21%の順となっている。県別には、千葉、鹿児島、茨城、埼玉の順となっている。
 
 

(7)昭和中・後期のでん粉生産

 昭和25年に戦前から続いたさつまいもでん粉に係る統制が完全に撤廃され、いも類も自由経済下の商品となった。その後、食糧事情も好転したことから、昭和25年産でん粉原料用のさつまいもの価格も37.5kg当たり平均263円(1kg7円)、でん粉の価格は37.5kg当り2700円(1kg72円)と高値となった。

 また、昭和25年6月には、朝鮮戦争(1953年停戦)が始まり、その影響を受け、食糧品等の特需が増加したことから、国内景気は好況となり、特に、でん粉産業は水飴など新たな需要が生まれ、でん粉の価格も高騰し活況を呈した。

 昭和26年産のでん粉原料用のさつまいもの価格は、37.5kg当り396円(1kg10円56銭)と前年比50%アップ、でん粉価格も37.5kg当たり3000円、10%のアップとなった。

 さらに、昭和27年6月には、農産物検査法の一部改正がなされ、玄そば、粟等と一緒にでん粉など12品目が検査対象に追加され、同年8月には、検査規格が定められ、一層の品質向上と公平、公正な流通が行われるようになった。また、この年に政府は初めてでん粉の買い上げを実施した。これは、原料いもとでん粉の価格を維持するための行政的な措置とされている。

 同年、いも類と関係の深い砂糖の自由販売が実施されたことから、でん粉の二次製品である水飴類の消費に大きく影響することとなり、消費が漸減し、でん粉の価格は低迷した。政府は食糧として、米や麦に次いででん粉など重要な農産物の価格が適正な水準から低落することを防止し、生産量の確保と農家の経営安定を図り、農家所得の安定に資するため、昭和28年農産物価格安定法を制定した。

 この法律は、農林大臣が対象作目(でん粉やなたねなど)の一定の買入数量を定めるとともに、買入基準価格を定め、買入れを行うことにより、適正価格を確保するものであった。しかしながら、その後、さつまいもでん粉などの生産が急激に増加したことから、でん粉価格にも影響を及ぼすことになった。

 このような状況を打開するため、政府は、昭和34年2月、甘味資源自給対策を決定した。これは、でん粉の消費を促進するもので、いもでん粉ぶどう糖工業に明るい兆しが見えた感があった。

 この時期、国民生活の洋風化による食事の内容変化がでん粉やぶどう糖の需要拡大につながるものと期待されていた。特に、清涼飲料水の甘味については、砂糖より結晶ぶどう糖が適していると考えられることなどから、国産のいもでん粉を原料とした結晶ぶどう糖製造の工業化を推進することとなった。

 その後、結晶ぶどう糖の生産量は需要の拡大に支えられ年々増加基調で推移し、昭和37年には、政府の手持ち在庫も底を突く状況になったばかりでなく、いも類でん粉の生産量が需要を満たすことができない需給のアンバランスからいも類でん粉価格の高騰をきたすこととなった。

 このようなでん粉市況を抑制するため、昭和38年外国産でん粉が輸入された。その影響で、糖化製品は暴落、でん粉価格も急落し、でん粉業界にも大きな打撃となった。また同年粗糖の輸入自由化が閣議決定された。このことが、でん粉産業業界にさらなる影響を与えることになったのは言うまでもない。

 昭和37年頃から輸入とうもろこしを原料とするコーンスターチの生産が急増し、農産物価格安定法による価格支持制度のみでは十分に対処しえない状況となったことから、昭和40年から、コーンスターチ用とうもろこしの関税割当制度が発足した。

 この制度は、輸入数量に一定の上限枠を定め、その枠内に収まる限り、無税または低い税率(一次税率)を適用し、それを超える数量に対しては、一次関税率より高い二次関税率が適用された。設備能力45万トンに対し、一次関税に相当するコーンスターチ生産量18万トンとする省令が公布され、規制が強化された。

 また、昭和39年には、甘味資源特別措置法が公布された。この法律は、甘味資源作物の生産振興を図り競争力を確保することを目的として、甘味資源作物又は国内産のでん粉を主たる原料として使用する砂糖類の製造事業の健全な発展と経営の安定、改善を図り、砂糖類の品質向上、甘味資源の国際競争力を強化するものであった。 対象品目として、てん菜、さとうきび、国内産糖、国内産ぶどう糖で、産地指定、生産振興計画を樹立し、振興するもので、助成策を講ずるものであった。

 昭和40年砂糖の価格安定等に関する法律が制定された。これは、砂糖の価格安定を図るとともに、国内産糖及び国内産ぶどう糖に係る関連産業の健全な発展を促進し、甘味資源作物及び国内産でん粉原料作物に係る農業所得の確保、国民生活の安定に寄与することを目的としたものであった。昭和43年からでん粉需給の主体をなす糖化用について、国産いもでん粉とコーンスターチの抱合せ方式(コーンスターチ用とうもろこしを輸入する場合、一定量のかんしょでん粉の使用を義務付けた方式)を採用し、抱合せ後のでん粉の平均単価を引き下げるため、糖化用とうもろこしの一次関税を無税にすることにより、その結果として、国内いもでん粉とコーンスターチ調整販売措置がとられ、国内産いもでん粉の価格維持と安定的な流通が図られることとなった。この頃の農家の経営は、昭和36年制定された農業基本法に基づく施策を活用しながら、それまでのさつまいも主作、裏作に麦、なたねを組み合せた輪作体系や陸稲、大豆、そば等の経営から農業を取り巻く社会情勢の変化に対応するため、農業の構造改善、農業生産の選択的拡大、自立経営農家の育成、適地適産による主産地形成と機械化体系の確立に向けた施策が進められた。

 日本の経済は、昭和31年からの神武景気、昭和33年から36年までの岩戸景気と長期高度成長期にあり、都市と農村の所得格差の是正が国の大きな施策課題となっていた。このようなことから、農業所得の安定確保を図る上で、果樹、野菜、畜産等生産性の高い作物の導入、農業構造改善事業等による生産・流通システムの構築が進められた。また、好景気を背景に農村から都市部への労働力の流失が急激に進んだ。このことから農業生産を支える労働力不足、後継者育成対策が農政の課題となった。さつまいもの栽培面積も昭和38年の7万1500haをピークに年々減少し、昭和45年には4万7700haとピーク時の67%に落込んだ。その後、国産のいも類でん粉については、輸入とうもろこしとの抱き合わせ比率の調整を図りながら、順調な取引きが進められた。昭和59年、引き続き抱き合わせ制度の安定と国産いも類でん粉の計画的な供給を図るため、でん粉原料用いも類の計画生産について、国の指導がなされた。

 昭和45年水質汚濁防止法が制定された。翌46年6月に施行されることとなったが、でん粉関係の水質の暫定基準総理府令が出され、昭和51年6月23日まで5年間の暫定的なものとなった。なお、昭和56年6月24日以降は一般基準となることから、昭和53年度からでん粉排水処理施設の整備について国県の助成措置を講ずることになり、鹿児島県においては、澱粉協同組合連合会および経済農業協同組合連合会が国県からの支援を受け、曝気処理の機械施設の整備を実施し各でん粉工場に対し廃水処理施設の貸付けを行うことになった。

 昭和61年4月1日で、農産物輸入制限12品目をめぐる日米暫定協定が期限切れとなることから、日米政府間交渉が本格化した。米国が、いも類でん粉、トマト、落花生など12品目の輸入制限は、ガット違反だとし、多国間協議に持ち込む構えを見せたのに対し、日本政府は2年後の昭和63年、でん粉については、自由化しない方針を堅持する一方で、その関連措置として、コーンスターチ用とうもろこしの輸入関税割当の二次税率を引き下げることで米国と合意した。
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