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皇室の菓子器「ボンボニエール」

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最終更新日:2018年3月9日

皇室の菓子器「ボンボニエール」

2018年3月

学習院大学史料館 学芸員 長佐古 美奈子

1.ボンボニエールとは

 「ボンボニエール」という言葉をお聞きになったことがありますでしょうか。
 「ボンボニエール」とは皇室の慶事の際に配られる、小さな工芸品の引出物です。

 写真1は、今上陛下が平成2(1990)年11月に即位された時に配られた引出物のボンボニエールです。来年、皇太子殿下が帝位に就かれますが、その即位の際にもおそらくボンボニエールが製作・配布されることと思います。銀製のものが多いボンボニエールですが、現在の皇室では、陶磁器製のものも作られています。 

写真1 銀製丸形鳳凰文ボンボニエール

 この引出物はなぜ「ボンボニエール」と呼ばれるのでしょうか。ボンボニエールは実は「菓子器」なのです。中の菓子は現在ではおおむね金平糖が入っています。もともとはヨーロッパで子供の誕生や結婚式などの祝事の際に砂糖菓子(bonbon)が配られ、その砂糖菓子を入れる容器をボンボニエール(Bonbonnière)と呼ぶことから、日本の皇室の引出物も「ボンボニエール」と称されるようになりました。

2.ボンボニエールの歴史

 皇室のボンボニエールは明治20(1887〜1897)年代に出現し、日本独自の発展を遂げます。華やかな意匠が施された工芸品として、大正〜昭和10(1912〜1935)年代前半には大流行期を迎え、皇室・宮家以外でも製作・配布されるようになりました。その製作件数は1000件を超すともいわれています。

 ボンボニエールが皇室の公式行事で最初に配られたのは、明治22(1889)年の憲法発布記念式典です。ただ、この時のボンボニエールについては詳しいことはあまり分かっていません。おそらくは既製の銀製品に菊御紋を入れて作られたと思われます。

写真2 鶴亀形ボンボニエール

写真3 正円香合形鶴亀文ボンボニエール

 明治27(1894)年になり、明治天皇・皇后の大婚25年記念式典、銀婚式が執り行われました。この際の饗宴に招かれ、陪席した621人には「ふたに岩上の鶴亀を付した銀製菓子器」が配られ、立食の宴に参加した1208人には「鶴亀の彫刻ある銀製菓子器」が配られたとの記録が残っています。これが、皇室がデザイン発注したボンボニエールの始まりとなります。

 では、なぜ皇室の引出物に、銀製の意匠を凝らした菓子器が配られるようになったのでしょうか。実はまだはっきりとした理由は解明されていません。

 明治の初め、西洋諸国と肩を並べる国家になるために、欧化政策がとられました。皇室でも外国の賓客を招いて、西洋式の饗宴を実施することになりました。その饗宴の最後にはプティ・フール(一口サイズのお菓子)が出されることもあったと思われます。そのプティ・フールを持ち帰ろうとすると当然入れ物が必要になります。また、日本には古来よりお祝いの席では、引出物・引菓子が配られる風習がありました。その引菓子も入れ物に入っていました。

 一方、江戸時代、優れた技術を有していた刀剣装飾工芸の職人達は、明治の廃刀令の後、職を失います。日本は万国博覧会を舞台に日本製品を外国に売り込むことに励み、日本の工芸品は海外で高い評価を得ました。皇室も国内産業の保護育成に取り組みました。

 そのような時代背景の中で、日本の伝統的な工芸意匠の凝らされた銀製の小さな菓子器は、外国人の人気を集めました。明治20(1887)年代にヨーロッパの宮廷儀式を日本に導入したドイツ人オットマ―ル・フォン・モールは
和服姿の皇太后が12月6日(明治21年)お出ましになって開かれた鹿鳴館における福祉バザー(中略)の記念に、いつも情け深い皇后はわたしの妻に三重のふた付きの四角形銀製のボンボン入れをくださった。これは皇室のご紋章が入っているきらびやかな古式ゆかしい日本人の作品だが、今でもわたしたちの家でタバコ入れとして使っており、称賛のまととなっている。
(『ドイツ貴族の明治宮廷記』)
 と、皇室下賜(かし)品の「ボンボン入れ」が、外国で称賛された様子を記しています。そのためでしょうか、外国人に人気の形−日本の伝統的なもの−を模したボンボニエールも数多く作られるようになりました。そのいくつかを写真でご紹介いたします(写真456)。

写真4 かご形ボンボニエール 天皇家紋

写真5 和船形ボンボニエール 天皇家紋

写真6 武家かぶと形ボンボニエール 天皇家紋

 日本における引出物の風習、日本独自の容器文化、海外での人気の高い日本の伝統工芸品、銀という希少価値、そして、伝統工芸職工技術の保護育成、これらのすべてに合致する配布物が「ボンボニエール」であり、そこには、西洋化を受け入れながら、日本の伝統文化を守ろうとした明治の皇室の姿が垣間見えます。ボンボニエールは、小さな外交官でもあったわけです。

3.ボンボニエールの中身

 ボンボニエールは「菓子器」です。先ほどご紹介した明治27年の皇室最初の公式ボンボニエールの中に入っていたものについて、当時の記録は次のように記しています。
●銀製菓子器
 大典(たいてん)(はい)()恩命(おんめい)(よく)せし者一統(いっとう)へ下賜ありたる銀製鶴亀の菓子器は、大なるは豊明殿(ほうめいでん)にて賜はり、小なるは()(がく)後夜会の時賜はりし物なり菓子は小粒の五色豆の如きを入れたり
(『風俗画報』71号)
 「菓子は小粒の五色豆の如きを入れたり」とあることから、5色の小さな菓子が入れられていたことが分かります。では、「小粒の五色豆の如き」菓子とは何だったのでしょうか。それはおそらくは金平糖だったと思われます。なぜならば、最初に記したように現在の皇室のボンボニエールには、5色の小粒の金平糖が入っているからです(写真7)。

写真7 香合形色絵木香茨文ボンボニエール

 金平糖は、戦国時代にポルトガルより渡来しました。永禄12(1569)年にキリスト教宣教師のルイス・フロイスが京都の二条城において織田信長に謁見(えっけん)した際に、献上物としてフラスコ入りの金平糖が差し出されたという記録があります。江戸時代には有平糖とともに庶民にも普及していました。明治天皇の事績を書いた『明治天皇紀』には、金平糖を病気見舞いに贈った、臣下に下賜したなど記述があり、明治皇室では金平糖を多く用いたことが分かります。

 もっとも、ボンボニエールに入れられた菓子は、金平糖だけではありません。大正10(1921)年に東京市が皇太子帰朝記念奉祝会を催した際のボンボニエールには「ミンツ(菓子)」を入れたという記録があり、また他の慶事の際にはチョコレートを用いた記録も残っています。昭和46(1971)年の昭和天皇御訪欧記念のボンボニエールには干菓子が入れられました。

 また、爪楊枝入れや葉巻入れ、指輪入れとなっているものもあり、「ボンボニエール=菓子器」から逸脱しているものも作られました。

おわりに

 ヨーロッパから入ってきたものを受容し、日本独自のものに作り上げ、それを長く伝統とするという行為は、日本人の得意とする誇るべき文化と言えます。明治の皇室はそれを率先して行い、日本の近代化に貢献しました。ボンボニエールという洋風の名の容器に日本独自の工芸意匠を施し、渡来品である金平糖を入れて、外国賓客に配る、まさに()(こん)洋才(ようさい)の逸品がボンボニエールなのです。
参考文献
1)長佐古美奈子(2015)『ボンボニエールと近代皇室文化−掌上の雅』えにし書房
2)宮内庁(1969)『明治天皇紀』吉川弘文館
3)オットマール・フォン・モール(1988)『ドイツ貴族の明治宮廷記』新人物往来社
4)東陽堂(1894)『風俗画報』
5)江後迪子(2011)『長崎奉行のお献立−南蛮食べもの百科』吉川弘文館
6)宮内庁三の丸尚蔵館(2017)『皇室とボンボニエール−その歴史をたどる』
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