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イスラーム史のなかの砂糖(3)

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最終更新日:2010年10月5日

イスラーム史のなかの砂糖(3) 〜砂糖商人の活躍〜

2010年10月

早稲田大学文学学術院教授 イスラーム地域研究機構長 佐藤 次高

 7世紀半ば以降、イラン、イラク、シリア、エジプトなど西アジアのイスラーム世界で砂糖生産がさかんになると、砂糖(スッカル)を専門に扱う砂糖商人(スッカリー)が登場してきた。
 
 彼らのなかには、ムスリム商人ばかりでなく、ユダヤ教徒の商人も数多く含まれていた。ユダヤ教徒商人の活動を記したゲニザ文書(*注)の研究家ゴイテインによれば、スッカリーはゲニザ文書に現れるもっとも一般的な職業であり、家族名であったという。彼らの活躍の舞台は、エジプト・シリアの東地中海域ばかりでなく、マグリブからアンダルシア、さらには南欧を含む地中海の全域に及んでいた。
 
*注:1889年、カイロ南郊のフスタートにあるユダヤ教会の保管室(ゲニザ)から発見された古文書群。文書はヘブライ文字のアラビア語で記され、10−13世紀のユダヤ教徒商人の活躍の様子を生き生きと伝えている。
 
 
 
 ここでアイユーブ朝のスルタン、サラーフ・アッディーン時代(1169−93年)の事例をひとつ紹介してみよう。1192年、ダマスクス在住のあるユダヤ商人は、シリアの海岸都市アッカーに布陣していたスルタンのもとに出向いて行き、次のように訴えた。
 
 
私はユダヤ教徒でダマスクスの商人です。〔エジプト産の〕砂糖20荷を船に積んでアレクサンドリアからやってきました。ところがアッカーの港まで来ると、あなたの配下の者が私の荷物をうばい、このようにいったのです。「お前は不信仰者なのだから、お前の商品は当然スルタンのものとなるべきだ」(バール・ヘブラエウス『年代記』)。
 
 
 サラーフ・アッディーンはこの訴えを聞くと、関係者に事実を確かめたうえで、砂糖の代金を返却したと伝えられる。当時の1荷(ヒムル)は、ラクダ1頭が運ぶことのできるおよそ250キログラムに相当するので、20荷の砂糖は約5,000キログラムとなる。
 
 この当時のシリアでは、砂糖の販売価格は1キログラム当たり約0.227ディーナールであったから、5,000キログラムの砂糖は約1,135ディーナールに相当する。主食のパンの原料となる小麦は、100キログラムが1.56ディーナールであったから、これにもとづいて計算すれば、1,135ディーナールで小麦7万2756キログラムを購入できたことになる。
 
 ところでエジプトを中心にみた場合、さとうきびの栽培、刈り取り、圧搾、粗糖(カンド)の生産、白砂糖への精製、販売はどのような仕組みのもとに行われていたのだろうか。
 
 エジプトの各地で栽培されたさとうきびは、冬(12月―1月)の刈り取りの後、農場の近くに設置された圧搾所(マァサラ)で、すばやく圧搾と煮沸が行われ、円錐形の素焼き壷(ウブルージュ)を用いて褐色の粗糖の固まりがつくられた(第1回目「製糖の技術」を参照)。これらの粗糖はエジプト各地からフスタートの精糖所(マトバフ)へ運ばれ、ここで粗糖に水を加えてふたたび煮沸し、この工程を繰り返すことによって、上質の砂糖がつくられたのである。
 
 スルタンやアミール(武将)、あるいは大商人などは、自らの所領でさとうきびを栽培し、粗糖をフスタートの精糖所で加工した後、これらの精製糖をカイロやアレクサンドリアに運んで販売し、大きな利益をあげることができた。
 
 イブン・ドクマーク(1405年没)の記録によれば、14世紀ごろのフスタートには、合計で65の精糖所があり、スルタンやアミールばかりでなく、ムスリムやユダヤ教徒の商人も精糖所の経営に熱心に携わっていた。これらの数字は、砂糖の精製と販売が当時は「もうかる事業」であったことを明瞭に物語っているといえよう。
 
 前述のサラーフ・アディーンの時代になると、エジプトを中心に「カーリミー商人」と呼ばれる商人グループが台頭してきた。カーリミーの語源はよく分からないが、最近は「回船(カーリム)の商人」が原義だとする説が有力である。12世紀末以降、カーリミー商人はアラビア半島南端のアデンでインド商人から中国産の絹織物や陶磁器、あるいは東南アジア・インド産の香辛料(胡椒・クローヴ・ナツメグ・シナモン・ショウガなど)や木材などを買い付け、紅海を渡って上エジプトのクースあるいはキフトでナイルの船に積み替えてから、これらの商品を首都カイロやアレクサンドリアまで運んでイタリア商人に売り渡した。
 
 イタリア商人は、綿織物・木材・鉄・銅・武器・奴隷など戦争に必要な物資をムスリム側にもたらし、いっぽうカーリミー商人は、絹織物・陶磁器・香辛料などアジアの物産のほかに、エジプト産の砂糖・小麦・紙・亜麻織物・ガラス製品などをイタリア商人に提供した。イタリア商人とカーリミー商人のこのような取引は、12世紀以降、十字軍の時代(*注)に入っても着実に増大していった。13世紀には、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ナポリなどの諸都市は、アレクサンドリアやカイロ、あるいはベイルートに商館(ファンダコ、「宿屋」を意味するアラビア語フンドクに由来)を建設して、安定した取引の維持をはかったとされている。
 
*注:聖地エルサレムの奪回をめざす十字軍は、1099年、エルサレムを征服してエルサレム王国(〜1187年)を建設し、その軍事行動は1291年に最後の拠点アッカーを失うまで続いた。
 
 
 
 
 マムルーク朝時代の歴史家マクリーズィー(1442年没)は、毎年6月ごろにエジプト各地で展開される光景を次のように記している。
 
 
〔コプト暦の〕バウーナ月(西暦5月26日―6月24日)になると、上エジプトのクース地方や下エジプトの各地から多くの船が、穀物・麦わら・粗糖(カンド)・糖蜜などを〔フスタートへ〕運ぶために航行する(『エジプト誌』)。
 
 
 前述のように、粗糖は、フスタートの製糖所でさらに精製され、できあがった上質の砂糖は、まもなくアレクサンドリアへ向けて出荷されたのである。マクリーズィーはつづけて次のように述べる。
 
 
ミスラー月(7月25日―8月23日)になってナイルの水がアレクサンドリア運河に流れ込むと、穀物・香辛料・砂糖(スッカル)など各種の商品を積んだ船が〔アレクサンドリアへ向けて〕出帆する(『エジプト誌』)。
 
 
 この二つの記事のなかには、フスタートの製糖所に運び込まれた粗糖が、2カ月後には上質の砂糖に精製され、イタリア商人の待つアレクサンドリアへ向けて出荷される様子があざやかに描き出されている。カーリミー商人は、インド洋と地中海をむすぶ交易活動の中核をにない、マムルーク朝スルタンの保護をえて莫大な利益を蓄えることができた。マハッリー家、ハッルービー家、イブン・クワイク家、イブン・ムサッラム家などの有力商人は、スルタンに多額の貸し付けを行い、十字軍やモンゴル軍との戦いに莫大な戦費を提供する者もあったとされている。
 
 しかし15世紀の半ば近くになって、「胡椒と砂糖の商人」として繁栄をほこったカーリミー商人の時代は突然に終焉のときをむかえる。新スルタンに就任したバルス・バーイ(在位:1422−38年)は、政府収入の改善をはかるために胡椒と砂糖の価格統制を行い、さらにそれらの購入と販売を政府の独占とする専売政策に踏み切ったからである。
 
 スルタンの後ろ盾を失ったカーリミー商人には、それ以後、独自の活動をつづける余地は残されていなかった。歴史家イブン・タグリービルディー(1470年没)は、その年代記のなかで、「ヒジュラ暦859(西暦1455)年のラマダーン月の末から現在〔874(1470)年〕にいたるまで、カイロやフスタートの市場では、カーリミー商人の姿はまったく見られなくなってしまった」(『時代の出来事』)と伝えている。
 
 エジプトの砂糖生産についてみても、15世紀ごろまでには、スルタン位をめぐるマムルーク軍閥の抗争、ペストの流行による人口の減少、アラブ遊牧民の略奪などによって、砂糖生産の活況は急速に失われつつあった。
 
 エジプトの砂糖生産にある程度の回復期が訪れるのは、オスマン朝による支配が安定する16世紀半ば以降のことである。この意味で、カーリミー商人の盛衰は、マムルーク朝の国家と経済の盛衰とも機をいつにしていたのだといえよう。しかも、16世紀以降、世界の砂糖生産の主役は、イスラーム世界の製糖技術を継承した「新大陸の砂糖プランテーション」へと継承されていくことになる。
 
 
 
 
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