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日本の菓子と砂糖

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最終更新日:2011年2月1日

日本の菓子と砂糖

2011年2月

静岡文化芸術大学 学長 熊倉 功夫

 私は大の甘党で、お菓子には目がありません。ところが最近は、何かと甘いものに制限があって、お菓子も甘くないと、「この菓子は甘味がおさえてあって、誠に結構」などというけしからぬ賞め言葉が横行して、私としては大いに不満です。これというのも、砂糖を悪玉に仕立てあげる世上の風潮があるからで、砂糖が決して悪玉ではないことを、どんどんとアッピールしてゆかねばなりません。
 
 食後に甘いものが食べたい、という気分は、太古の昔からあったでしょう。お菓子とお茶というようにセットにして今は考えがちですが、お茶が日本に渡来するずっと前からお菓子はありました。それは食後のデザート、あるいは厄払いの特別な食べものでした。
 
 お菓子の誕生伝説は、ご存知の通り垂仁すいにん天皇と田道間守たじまもりの神話です。天皇が田道間守に命じて常世国とこよのくにへ不老不死の非時香菓ときじくのかぐのみを求めに行かせます。田道間守が長い年月をかけて非時香菓を天皇のもとへ持ち帰りますが、すでに天皇はなくなっていて、その実を御陵に捧げて田道間守もなくなります。この非時香菓は今でいうたちばなであるとされています。
 
 この神話は二つのことを教えています。一つは、お菓子の原型が果実であったこと。第二は、お菓子は不老不死という無病息災、延命長寿の願いをこめた食べものである、ということです。その後の菓子の歴史はそのことを立証しています。
 
 加工食品としてのお菓子が登場する前は、すべて果実であったといってよいでしょう。もうすでに砂糖がお菓子に使われるようになった16世紀は、茶の湯が最も栄えた時代です。その当時でも、お菓子の中に干柿、熟柿、栗、かやの実などの果物や木の実が、茶会の菓子として盛んに使われていました。今では果物と菓子を区別しますが、本来は、両方合わせてお菓子でした。
 
 先に非時香菓が不老不死を願う食べものであったとしましたように、季節のかわり目に食べられるお菓子の中には厄払いの要素が今も残ります。典型的なのは草餅です。草餅は、材料となるよもぎの葉の強烈な香りを楽しむのですが、こうした強烈な香りはしばしば悪霊を追い払うために使われます。五節句に数えられる端午(5月5日)や重陽(9月9日)などは実は厄日で、厄(悪霊)を身体が追い出す必要がある日です。そのために菖蒲の強烈な香りや菊の香りを身にしめるわけで、3月3日の草餅も、同じ意味合いでした。香りばかりではありません。関西で六月に入ると必ずお菓子屋さんの店先に並ぶ「水無月みなつき」というお菓子は氷をイメージした三角形の白いういろう地に小豆を散らしたものですが、6月1日をこおり朔日ついたちといって、昔は宮中で氷を配り、その冷たく固い氷を食べて健康を願った歯固はがための儀式になぞらえたお菓子です。つまり氷をシンボライズした水無月を食べて、この夏を無病息災で過ごしたい、という願いがこめられています。このように人びとの祈りを托した日本のお菓子の特質が、今では忘れられがちで残念です。
 
 日本にまだ加工食品としてのお菓子が生まれる以前、中国から輸入されたお菓子があります。唐菓子と呼ばれるもので、小麦粉(日本に入ってきてから米の粉になります)をこねて縄状にして丸めたり、テトラポットのような形にしたり、不思議な形状にして油で揚げます。唐菓子はお菓子としてはその後発展せず、今はかろうじて神社の神饌の中に姿を残しています。
 
 古代の甘味料を考えてみますと、自然の果物から摂取する他は、あまりなかったといえましょう。砂糖は外来の貴重品。奈良時代、日本に渡ってきた鑑真和上の将来品の目録の中に見えるのが砂糖の初見史料です。蜂蜜の技術を持たなかったわが国では一番古い甘味料は米の発芽したもやしを使って作る「あめ」ですが、これも簡単にはできません。もちろん甘酒もありますが甘味料とはいえないでしょう。平安時代になってよく登場するのが、ツタ科の植物である甘葛あまづらの樹液を煮詰めた甘葛煎あまづらせんといわれるものです。清少納言の『枕草子』にあてなるもの(上品なもの)として「削氷けずりひに甘葛いれて」とありますように、今のカキ氷のような食べかたをしています。また『今昔物語』の芋粥いもがゆの話は芥川龍之介の短編小説にもなってよく知られていますが、あの芋粥は、山芋を甘葛で煮たデザートであるといわれています。
 
 甘味料が不足していた古代をこえて、中世末期になりますと、輸入品の砂糖が貴族の贈答品の中に顔を見せるようになり、さらに「砂糖饅頭」とか「砂糖羊羹」が史料に登場します。いよいよ砂糖の時代が16世紀にはじまります。
 
 砂糖を一気に身近なものとした要因は、ポルトガル人の来日と南蛮貿易の発展でしょう。南方で作られる砂糖が大量に輸入されました。
 
 ポルトガル人によってヒントが与えられ、日本のお菓子として成長したカステラやコンペイトウなどを南蛮菓子と呼びます。南蛮菓子の特徴は砂糖がふんだんに使われていることです。もう一つの特徴は鶏卵を使うこと。不思議なことに、日本人はこの時代まで鶏の肉も卵も食べる習慣がありません。おそらくポルトガル人の影響で食べるようになったのです。食べてみるとおいしいので、その後は日本人の大好物になりますが、この砂糖と卵の組み合わせが、カステラや鶏卵素麺けいらんそうめんなどの南蛮菓子を作りあげました。
 
 しかしまだ砂糖の供給は十分ではありません。その後100年、オランダ貿易と唐人貿易、さらに琉球と薩摩の支配関係が定着する中で、次第に砂糖の供給も増加した17世紀の終り、元禄時代にお菓子文化の一つの大きな波がきます。当時出版された『男重宝記なんちょうほうき』という本には250種以上のお菓子の銘が載せられていますし、いわゆる駄菓子の煎餅類もいろいろ作られました。
 
 本格的な砂糖の時代は、1727年、八代将軍徳川吉宗によって琉球のサトウキビが輸入され諸藩でその栽培と砂糖の生産がはじまったのちのことです。それでも砂糖は調味料の中でも別格で、薬種問屋が扱いました。砂糖が薬であったその昔の姿がこんなところに残っていたのです。
 
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