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砂糖の調理特性を活かしたお菓子

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最終更新日:2011年5月9日

砂糖の調理特性を活かしたお菓子 〜砂糖漬〜

2011年5月

株式会社梅鉢屋 代表取締役 丸山 壮伊知

「江戸砂糖漬」

 「野菜菓子」は、内容を分かりやすくするための現在の名称ですが、江戸の頃からの正式な名称は「砂糖漬」でした。

 このような菓子が江戸時代から存在していたということは現在ではあまり知られていませんが、かの、南総里見八犬伝の著者、滝沢馬琴の日記に登場するほど、既にこの頃、江戸市中では盛んに商われていたようです。
 
 
 「清右衛門(馬琴の婿)が万屋善兵衛殿より言付かった砂糖漬の小折を持参し、その後少し話をして帰去した」

 (文政十年七月十八日 滝沢馬琴の日記より)

 この後、彼はこの頂いた砂糖漬を長火鉢の引き出しにでもしまったのではないかと想像します。砂糖漬は、湿気には弱いが乾燥には強いため、当時湿気を嫌う物をしまっておくちょうどよい場所だった長火鉢の引き出しは、良家のご隠居さんなどがその頃貴重品であった砂糖漬をしまう場所としてよく使われていたと聞いています。
 
 
 文献によると砂糖漬は中国で製造された物が、江戸時代の始めに長崎あたりにもたらされ、渡来品として販売されていたようです。

 当時は漢方薬などと共に薬種店で売られていたとの記述も残っており、滋養に富む砂糖漬は薬のように扱われていたのではないかと推察されます。また、その当時の砂糖漬の種類は、蜜柑みかんの皮、生姜しょうがなど限られたものであり、その扱い高も極めて少量であったようです。

 江戸中期に至って砂糖は一般にも入手できるようになった事から、砂糖漬も広く庶民の手の届く物になっていったようです。

 戦前の弊社の製品に「天門冬てんもんどう
」というのがありましたが、これは漢方薬である同名の薬草の根を用いて砂糖漬にしたか、或いは根の形状を模した品ではなかったかと思われます。

 また、柑橘類の一種で「仏手柑ぶしゅかん
」というものもあり、これは文字通り仏様の手のような形をした少し変わった果物だったのですが、江戸後期には「仏手柑」の代わりにだいだいを用いて「仏手柑砂糖漬」として作られ、盛んに愛好されました。蓮根れんこん牛蒡ごぼう・大根・人参・昆布・・・と品数は増え、現在では椎茸しいたけ茗荷みょうが苦瓜にがうりなども砂糖漬になっています。

 話は戻りますが、長崎方面に伝わった砂糖漬の技法はその後、関西方面に伝わり大坂を中心として全国的に広まり、江戸では「下り物」の高級菓子としてもてはやされました。  文化文政の頃には前述の馬琴日記にも書かれているように、贈答用にも盛んに用いられていた様子が伺われます。

「梅鉢屋」

 江戸末期から明治初年にかけて江戸人形町に「伊勢一」という菓子製造店がありました。ここに内田安太郎と田中豊作という腕の良い職人がおり、技術を修めた二人はそれぞれ独立し、明治中期の東都の砂糖漬の製造販売を二分しました。内田安太郎は神田三崎町に内田商店なる製造工場並びに店舗を構え、当時の有名店として関東一円、東北地方までその商圏としましたが、この内田商店の工場長として盛んに腕を振るったのが梅鉢屋の初代丸山林之助でした。

 丸山林之助は大正四年に内田商店から独立創業し、その後、元々の内田商店が大正の終わり頃に、さらに前出の田中豊作も昭和の初め頃には相次いで廃業し、不思議な運命により江戸砂糖漬の製法技術が梅鉢屋に残された次第です。

「製法」

 砂糖漬は、大変手間のかかる菓子で、江戸の頃はもちろん、現在でも全て手作業による製造を行っております。

 全ての生の野菜・果物等は、青果商から配送されたり、直接市場に買い付けに行ったり、さらには農家より直送されてくるものなど、数通りの方法で入手します。これらの原料を包丁で切る事から砂糖漬製造は始まります。
 
 
 
 
 切り終えた原料は、その後水から茹でます。茹で上げまでの時間は種類と季節により異なりますが、十五分程度で茹であがるものもあれば、朝から夕方までほぼ半日を使って茹でられるものもあります。

 こうして茹でられた野菜は水洗いし、良く「あく」を落とした後、砂糖溶液(糖蜜)で煮ていきます。この糖蜜煮の工程が砂糖漬の製造で最も手間のかかるところであり、早いもので丸二日、長いものでは五日から六日かけて、ゆっくりと煮上げていきます。

 煮上げる際には火にかけたまま煮続ける事はせず、火にかけて少し水分を飛ばし、さらに砂糖を加えて糖蜜の濃度を少しずつ上げ、火から下ろして翌日まで「寝かせ」、また同じ工程を繰り返し、徐々に徐々に濃度を上げるという方法をとります。よく職人の間で、「素材の野菜たちに気付かれないように濃度を上げて行く」と言われるように、砂糖漬の製造はどうしても長時間を要するものなのです。

 こうしてある一定の濃度まで煮上げられた品物は、最後に熱いうちに糖蜜から引き上げられ、
 
 
 
 
広げ台の上で上掛け砂糖を振りながら少し攪拌されると、ほんの数分も経たないうちに素材の表面が自然乾燥をしてサラサラの状態となります。

 これをさらに一日落ち着かせて初めて砂糖漬の完成となります。

 現在ではこの砂糖溶液の濃度管理は糖度計という道具を使用しておりますが、江戸の頃はもちろんのこと、明治・大正期においても、職人たちは自分の親指と人差し指の間に糖蜜を取り、その粘り具合で煮上げるのに必要な糖度を計っていたそうです。
 
 

「伝統」

 菓子の中でも「粉物」と称される品々の製法は今で言うところの「レシピ」が大変重要なものになりますが、砂糖漬の製法にはこのレシピが存在しません。何故なら砂糖漬は自然の野菜そのものを素材にしており、産地差(地域による違い・畑による違い)、季節差、個体差があるため、あらかじめ決まった製造工程だけでは対応することができない技だからです。製造全体の流れは決まっていますが、常に野菜の顔色を見ながら、所々で細かく調整をしながら砂糖漬に仕上げていく、という難しさがあります。さらにそこには前提として砂糖漬に向く野菜の吟味と、野菜と共に重要な原材料としての砂糖の選択があります。

 砂糖漬は砂糖の持つ浸透性と再結晶力を有効に使って仕上げる菓子です。同じ野菜でも砂糖漬にできないものがあるのと同様に、他の糖類(水飴やブドウ糖)では砂糖漬を作ることができません。良い野菜と良い砂糖が揃って初めて砂糖漬が完成するのです。

 これらのものは全て江戸伝来の技術で、出来上がった製品のみならず、この技を含めた全てが江戸の文化といえます。新鮮な農産物と砂糖を使って菓子に仕上げる砂糖漬という形態の菓子は世界中に存在していますが、他国のものの多くが素材を果物に求めているのに対し、四季折々の野菜を素材に砂糖漬の製造を続けてきた事は、日本独自の特徴であろうと思っています。今後もこのユニークな江戸文化を後々まで伝えて行く責務が弊店にはあるものと考えています。

 江戸の文化は、現代にも勝る多様性と独自性をふんだんに含んだ文化でした。そこには自然に逆らわず、無駄な事は極力避け、合理的に暮らす、という現代の人間が見習わなければならない要素がたくさん存在します。私どもはただ単に江戸からの菓子を製造販売するだけにとどまらず、江戸の文化と江戸人の精神を今後に伝え、菓子と共に味わって頂きたいと願っております。
このページに掲載されている情報の発信元
農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)
Tel:03-3583-8713