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織田信長と砂糖

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最終更新日:2011年5月9日

織田信長と砂糖

2011年5月

株式会社 虎屋 虎屋文庫 相田 文三

戦国の風雲児

 尾張(愛知県)の一大名から天下統一にあと一歩まで迫った織田信長(1534〜82)は、軍事や経済に類い稀な才能を発揮した戦国の風雲児として知られます。安土城築城や楽市楽座の実施など、革新的な業績を残した一方で、苛烈な性格であったとされ、比叡山延暦寺を焼き討ちするなどしたことから「魔王」と呼ばれることもあります。天正10年(1582)6月2日、京都本能寺に宿営中、配下の明智光秀あけちみつひでに襲われ命を落とした事件は、「本能寺の変」としてあまりにも有名です。
 
 

信長と南蛮菓子

 永禄11年(1568)、信長は室町幕府の15代将軍となる足利義昭あしかがよしあきを奉じて上洛し、天下人への大きな一歩を踏み出しました。その翌年、京都でキリスト教の宣教師ルイス・フロイスと面会した際、Confeitoコンフェイト入りのガラス瓶を贈られています。Confeitoとはポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する言葉で、同名の菓子が現在もポルトガルやスペインで作られています。金平糖の原形ともいえますが、あまりきれいな角はなく、信長が手にしたのもこれに似たごつごつした砂糖の塊だったでしょう。しかし、当時砂糖は貴重な輸入品だったため、非常に珍重されたと考えられ、信長は快くフロイスの願いを聞き入れ、キリスト教の布教を許可しています。
 金平糖のように、ポルトガルやスペインにルーツを持つ菓子は、南蛮菓子と呼ばれ、カステラ、有平糖あるへいとう、ボーロ、鶏卵素麺けいらんそうめんなどが知られます。戦国時代後期から江戸時代初期にかけて、宣教師や貿易商人らによって日本に持ち込まれました。その特徴は、大量の砂糖を使っていることや、日本では食用が避けられていた鶏卵を用いていたことで、それまでの日本の菓子にはない味わいでした。宣教師たちも布教に利用し、人々の興味をひくために南蛮菓子を配ったといいます(『太閤記』)。

 また、貴人の接待などにも利用され、信長が天正9年に盟友の徳川家康を招いて饗応した際の献立には、「あるへいとう」の名が見えます(慶應義塾大学図書館蔵「御献立集」)。有平糖はポルトガルのAlfenimアルフェニン
という砂糖菓子が原形ともいわれ、現在は砂糖・水飴・水を煮詰めて作ります。信長は当時の人々にも南蛮物好みの人物として知られており、南蛮菓子も嗜好に合ったのかも知れません。

*Alfenimについては、荒尾美代『砂糖類情報』2005年12月号「南蛮菓子と砂糖の関係」参照。

砂糖の贈り物

 砂糖の国内生産が始まるのは江戸時代に入ってからで、信長の時代には、南蛮菓子だけでなく、砂糖自体を贈答する事例も見られます。例えばフロイスと会見した永禄12年、信長は正親町おおぎまち天皇へ砂糖を献上しています(『御湯殿の上の日記』)。また、天正8年には土佐(高知県)の長宗我部元親ちょうそかべもとちかから信長へ、砂糖3,000斤(約1,800kg)が贈られました(『信長公記』)。当時の砂糖の価値からすれば桁外れともいえる贈り物ですが、長宗我部氏はなぜここまでして信長の勧心を買おうとしたのでしょうか。
 長宗我部氏と信長は、畿内(近畿地方)から阿波(徳島県)・讃岐(香川県)に勢力を張る三好みよし氏に対抗するため、天正3年ころから友好関係にありました。しかし天正8年当時、三好氏の勢力は衰退、両者が手を結ぶ意味は薄れていました。さらに、阿波・讃岐へと勢力を拡大していた長宗我部氏に圧迫された三好氏は、かつての敵、信長に保護を求めたのです。

 “三好氏が信長の傘下に入れば、阿波・讃岐には手を出せなくなる”。四国統一を目指す長宗我部氏にとって、信長が三好氏側に付くことはなんとしても避けたかったはずです。3,000斤もの砂糖を用意するのは並大抵の努力ではなかったと考えられますが、信長との関係が微妙になっていることをわかっていたからこそ、大きな出費もいとわなかったのでしょう。

 ところが、信長は贈られた砂糖を、すぐに側近の馬廻衆うままわりしゅう
に与えてしまいました。南蛮貿易の拠点である堺(大阪府)を押さえていた信長は、砂糖が比較的入手しやすい立場であったため、気前良く部下に分け与えたのでしょう。結局、砂糖の贈り物は信長の心を動かすにはいたらなかったのか、翌天正9年頃から信長は三好氏を保護して、長宗我部氏と対立するようになります。

本能寺の変と長宗我部氏

 天正10年、信長は阿波・讃岐から手を引くようにと長宗我部氏に要求するも拒絶され、4〜5月頃には討伐のための軍勢を大坂に集結させました。討伐軍の総司令官は当時不遇であったともいわれる信長の三男信孝のぶたかで、三好氏を保護するにあたって、その一族の三好康長みよしやすながの養子になっていました。信長も人の親だったのか、このあたりで息子に手柄を立てさせたかったようです。

 ところが同年6月、本能寺の変で信長が倒れたため四国遠征は頓挫します。信長を討ち、結果的に長宗我部氏の窮地を救うことになったのが明智光秀。彼は部下に長宗我部氏の血縁者がおり、信長の下で長宗我部氏との交渉を行なっていた人物です。長宗我部氏討伐を巡って主君信長と対立し、織田家中での影響力を失ったことも、本能寺の変の動機のひとつと考えられています。

 窮地を逃れた長宗我部氏は、阿波・讃岐を手中に収め、天正13年には念願の四国統一を果たすことになります。苦労して3,000斤の砂糖をかき集めた執念が、ここに実ったということでしょうか。

 ちなみに、長宗我部氏がどうしても手に入れたかった阿波と讃岐は、江戸時代に甘蔗(サトウキビ)栽培が行なわれることになる地域で、現在は国産の高級砂糖、和三盆糖わさんぼんとう
の主要産地として知られます。

*和三盆糖については、荒尾美代『砂糖類情報』2011年3月号「内外の伝統的な砂糖製造法(1)」参照。
 
 
 
 
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農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)
Tel:03-3583-8713



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