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内外の伝統的な砂糖製造法(4)

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最終更新日:2011年10月7日

内外の伝統的な砂糖製造法(4) 〜吉宗の国産化政策と薩摩藩のさとうきび〜

2011年10月

昭和女子大学 国際文化研究所 客員研究員 荒尾美代

 

 前号までで、奄美大島へのさとうきびの移植と、砂糖生産についてお伝えしたが、本土でみると、徳川八代将軍の吉宗が、砂糖の国産化を推進したことから本格的なさとうきび栽培と砂糖製造法の調査・研究が始まった。今号では吉宗による砂糖国産化策の第一段階であるさとうきび栽培と、それに対する薩摩藩の関係について紹介する。

 ここで、当時の日本の砂糖の状況についてみてみたい。

 国内に供給される砂糖のほとんどは輸入品で、「薬種」として扱われており、莫大な金銀銅がその対価として支払われた。石見銀山や佐渡金山は、幕府が牛耳っていたが、鉱山に眠る金銀銅が無尽蔵にあるわけではなかった。

 当時の輸入品は、砂糖ばかりではなかった。西洋医学の導入が進んでいなかったため、主な薬物は薬草類であり、朝鮮人参や甘草などその多くも輸入に頼っていた。幕府は、輸入に頼っていた薬種の国産化を目指し、その試植場として薬園の設置に着手した。寛永15(1638)年には、早くも三代将軍家光が、大塚御薬園と麻布御薬園を開設した。大塚御薬園は天和元(1681)年に廃止され、その後ほどなくして、貞享元年(1684年)に麻布御薬園を小石川に移転した。これが小石川御薬園の始まりである。享保6(1721)年に、八代将軍吉宗は、小石川御薬園を現在の小石川植物園とほぼ同じ面積の147,840uに拡大した。

 この小石川御薬園拡大の際には、江戸城内の吹上御庭をはじめ、京都御薬園や長崎からも、植え付けのための薬種の種や根などが届けられ移植された。国内で産出する薬物や有用品の探索と採取を行う採薬使として各地へ赴いた、丹羽にわ正伯しょうはくや植村佐平次からのものもある。また、薩摩藩主松平大隅守が、享保7年に甘味があり、鎮静・滋養強壮薬になる「生竜眼りゅうがんにく 六升程」を、享保8年にはミカン科シトラス属の「真枳殻きこく 四十」を献上している。

 薬園の運営は、幕府領のみならず、各藩領や旗本知行地、寺社知行地などでも推奨された。島津藩領最古の薬園とされる鹿児島県揖宿郡山川町の山川薬園跡には、竜眼の木が残っている。松平大隅守が生竜眼肉を献上したのもうなずける話である。


ぎょう高録こうろ』という史料に、享保12(1727)年に、薩摩藩の家臣である落合孫右衛門という人物が、さとうきびの植え方などのことを申し出て、幕府が管理している浜御殿(現在の浜離宮)でさとうきびを作ったとある。

 この落合孫右衛門という名前が、薩摩藩から奄美大島へ派遣された黍検者のなかにないかと探してみたが、見つからなかった。そこで、薩摩藩士名簿の類に名前がでてこないかと探した。名簿ではないが、かつて江戸の芝、皿子町にあった大円寺所蔵の過去帳の中に、落合孫右衛門の名を見つけた。「薩陽過去牒」は、主として明暦3(1657)年の振袖火事以後の薩摩藩出身者の過去帳である。

 過去帳なので、日付順で、その日付の中では、年号が若い順に、順次書き加えられている。三日のところに、「天明六丙午八月 中小姓 落合孫右衛門 證道祖卯居士」と、落合孫右衛門の名前が見える。天明六年は1786年であるので、享保12年に浜御殿で試植したとされる59年後であり、長寿であったとすれば年代的にはこの人物こそが、薩摩藩から幕府へ、さとうきびの植え付けを指導した人物であると考えられる。しかも、役職が「中小姓」であったことがわかる。以上のことから、江戸時代の日本でいち早く砂糖生産に成功をおさめた薩摩藩の藩士である落合孫右衛門という人物が実在していて、薩摩藩が幕府に手を貸したという事実が裏付けられたといえるだろう。

 薩摩藩というと、黒糖製造の独占販売というイメージがあるが、まだこの頃は、薬草や砂糖の「日本国を挙げて」の国産化へ向けて、協力する姿勢があったのではないだろうか。


 では、薩摩藩から浜御殿へもたらされたさとうきびの品種はどのようなものであったのか?

 さとうきびという植物は、米と同じイネ科であるが、苗作りのように籾を種として蒔くわけではない。「種」というと、丸みを帯びた形状の実をイメージするが、さとうきびの場合は、棒状の茎が「種」である(写真1)。また、根株も「種」になる。

 享保7(1722)年には幕府の医官となり、薬草の調査・研究を行っていた丹羽正伯は、享保20(1735)年に各藩の江戸留守居を呼び寄せ、各領内の産物の調査を要請し、絵図付きの『産物帳』を3年間で提出するように通達した。各領4から5冊として、200〜300領からとすると、優に1000冊を超える日本初の産物帳である。しかし、幕府の文書を引き継いだ国会図書館や内閣文庫には、この一大『産物帳』が納められていないという。どこへ消えたかは謎である。しかし、提出する藩は、控えをとっているはずなので、それが、部分的に残っている藩もある。

 そこで、薩摩藩の産物帳に、さとうきびが描かれていないかと考えた。

 このころ薩摩藩は、日向国、大隅国、薩摩国を領しており、それらの国の産物帳の控えの一部が伝存している。

 砂糖生産に成功していた奄美大島、喜界島、徳之島などは、薩摩国領だったので、さとうきびが描かれていても不思議ではないのだが、残念ながら、薩摩国の分は、本文を欠いており絵図だけが残っているものの、落丁があるので、幕府へ提出した産物帳にさとうきびが載せられていたのか否かわからない。

 しかし、産物帳を作成するにあたって、薩摩藩の江戸留守居が、丹羽正伯に伺いをたてた時の記録が残っている。それによると、琉球の産物は除外していいこと、また琉球から渡来して領内で生育している産物も除外していいとの返答であった。したがって、奄美諸島に琉球から移植されたさとうきびは、そもそも描かれていなかった可能性が高い。
 
 
 この産物帳の提出から約30年後の明和5(1768)年、薩摩藩主島津重豪は、薩南諸島の動・植物の標本の採取と提出を求めた。2年後の明和7年に、集められた植物の標本は、本草学者で医師の坂上登(田村元雄)へ渡され、漢名との同定や解説が田村に依頼された。同年、『琉球産物志』として、彩色図と注記付きの15巻附録3巻の計18巻としてまとめられた。「琉球」と題するものの、主な産地は奄美大島(琉球大島)とされ、他に硫黄島、トカラ島、薩摩などで、約730品所収の薩南諸島の植物誌である。このなかに、さとうきびがあったのだ。「荻蔗」と「崑崙蔗(こんろんしょ)」という名前で、2種類が描かれている(写真2)(写真3)。

 「荻蔗」の注記には、「登按、茎高八九尺、其葉長三尺計、?茎汁煎錬為沙?有術 琉球土名沙?絵岐昆」とあり、茎を搾って汁を煎じて砂糖にする方法があるとしている。

 一方「崑崙蔗」の注記には、「本草載蔗有赤色者名崑崙蔗、登按比荻蔗其茎葉寛大而赤色多節 琉球土名真荻、薩州種島方言紫黍草」とあり、中国の薬学書である『本草綱目』に、赤い色があるのは崑崙蔗と名があることが紹介され、荻蔗よりも茎と葉が大きく、節に赤色が多いという特徴が記されている。


 享保年間に浜御殿へ試植されたのは、両種のさとうきび、あるいは一方のさとうきびではなかったか!?

 当時のさとうきびが現存していない今、彩色図によって、江戸へ試植されたさとうきびの姿を想像するしか術はないが、それでも描かれたものが残っていてよかった。

 この頃の薬草・本草・産物学を推進、研究された先人らへ、頭が下がる思いである。
 
 
 
 
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