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内外の伝統的な砂糖製造法(6)

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最終更新日:2011年12月9日

内外の伝統的な砂糖製造法(6)〜日本が輸入したアジア生産の砂糖〜

2011年12月

昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代

 前号までに、薩摩藩士によって浜御殿に植え付けられたさとうきびが、さらに、千葉の薬園に移植されたという話を書いた。  幕府が行った砂糖の国産化への実践に向けて取った行動は、これだけではなかった。

 吉宗は、地方行政と物産に関心があったとみられ、享保6(1721)年6月に、当時清朝であった中国の地方誌の収集を長崎奉行に命じた。また、長崎に来港する「唐船」の船頭に、砂糖製造法の書付を提出させた。


 今月は、幕府が得た中国からの砂糖製造法の情報にはいる前に、視線を日本から海外へ広げ、当時のアジアの国々や、日本の砂糖の輸入状況を概観したいと思う。


 寛永18(1641)年、オランダ人の居住地を長崎の出島に限定した鎖国の完成に先立ち、平戸にあったイギリス商館は元和9(1623)年に閉鎖され、翌年寛永元(1624)年にはスペインとの国交断絶。日本人も、豊臣秀吉時代から引き続き、幕府から許可状を発給された朱印船によって東南アジア方面へ交易のために渡海していたが、日本人の渡海が禁止され、海外に住む日本人の帰国も禁止、寛永16(1639)年にポルトガル船の来港が禁止された。

 以来、キリスト教の布教をしないことが絶対条件となり、ヨーロッパでは、オランダ船のみが貿易を許可されていた。また、唐船と呼ばれた、アジアの港を出港した船の来航も、長崎入津に限って貿易を許されていた。唐船というと、中国からの船だけと思いがちであるが、カンボジア、ベトナム、タイ、インドネシアなどから出航する船も来港していたのだった。

 オランダ船と唐船は、氷砂糖、白砂糖、黒砂糖なども大量に運んできた。


 鎖国時代において、海外からの情報が一番集まった長崎。この地で生まれた天文暦算家で地理学者に西川如見じょけんという人がいた。
 如見は、享保3(1718)年11月に、吉宗の命によって江戸に召され、翌年の春に江戸城において吉宗の下問に答えた。その後長崎に戻り、享保9(1724)年に亡くなっている。息子の正休まさよし
は、元文5(1740)年に召し出され、暦術測量御用(太陽・月・星の運行を測定して暦を作る仕事)を承り、吉宗の側近として仕えるようになった。まさに、吉宗時代に関わっていた親子だった。


 この如見が、吉宗に召されるに至るだいぶ以前の宝永5(1708)年に刊行した『増補華夷かい
通商考』には、中国2京13省と、アジア諸国、その他のオランダを初めとする外国の位置、風土、土産どさん(土地の産物)などが記されている(写真1、2)。これは如見が元禄8(1695)年にすでに刊行していた『華夷通商考』上下2冊を、5巻5冊として大幅に増補したものである。
 
 
 
 
 この史料から東アジア、東南アジアで砂糖を土産として挙げている地をみていくことにしよう。

 砂糖を土産とする地は、中国では、「砂糖 白・黒・氷色々、泉州・▲州しょうしゅうニテ造ル」と、現在の福建省内の泉州と▲州が挙げられている(写真3)。「甘蔗サタウキビ 泉州・▲州、砂糖ニセンズルキビ」と、砂糖製造用のさとうきびも挙げられている。また、「砂糖漬物色々 蜜漬・乾漬 福州・泉州・▲州ヨリ出」と、砂糖漬けには「蜜漬」と「乾漬」があり、前者は蜜でベトベトした砂糖漬け、後者は乾燥している砂糖漬けの2種あったことを示している。福州(同じく現福建省)が、砂糖やさとうきびの産地として挙げられていないにもかかわらず、砂糖漬けの産地として加えられているのは、砂糖漬けの加工では有名であったことを示唆しているといえよう。
*▲はさんずいに章。

 琉球とカンボジア「東埔寨カンボウチャ
」の土産では黒砂糖が挙げられ、東埔寨の黒砂糖には「烏糖トモ」と記されている。黒砂糖といっても焦げ茶や赤みがかったものがあるが、東埔寨の黒砂糖は烏のように真っ黒でつややかな印象があったのではなかろうか。

 台湾である「大寃タイワン
」の土産では、白砂糖が筆頭に挙げられている。

 「暹羅シャム
」の土産には、「黒砂糖・切砂糖・白砂糖 下品少々」が挙げられているので、暹羅では白砂糖は品質の良くないものが少ししか生産されていなかったのであろう。
 
 
 ベトナム中部である「交趾カウチ」の土産には、「砂糖白・黒・氷」が出てくる。

 また交趾の土産には「砂糖蜜」というのもある。「蜜」というと、この時代さまざまな「蜜」があったので、さとうきび由来の蜜とは断定できないのであるが、はっきりと「砂糖蜜」と書かれているので、さとうきびから作られた蜜と考えられる。

 おもしろいのは、「浮石糖カルメル
」が土産として挙げられていることである。「カルメル」とルビがふられているが、カルメルの元の語はポルトガル語で、まだポルトガル人の来港が許されていた頃に日本へ伝わった南蛮菓子の一つである(写真4)。
 
 
 ベトナム中部にもポルトガル人が来港していたから、はるばるポルトガルから「カルメル」を舶載して、その製法が移転されたとも考えられる。または、同じような砂糖菓子がすでにベトナムにあったのか?

 マレー半島に14世紀から19世紀まであったパタニ王国「太泥タニ」からは、砂糖蜜が挙げられている。

 「呱哇ジャワ
」からは、「砂糖 白・黒・シミ」が、ジャワ島西部にあったバンテン王国「番且バンタン」からは、「砂糖 白・黒」が挙げられている。

 そして、オランダ船による貿易のアジアの本拠点としてオランダ東インド会社が支配していたジャワ島西北岸「咬●■カラパア
」。この地をオランダ人はバタヴィアと名付けた。日本人はジャガタラとも呼んでいた。ジャガイモの語源となった名称である。この地の土産として、「砂糖 白・黒・氷・シミ」が挙げられている。オランダ船は、毎年1〜2艘、多いときで3艘日本へ来港していたが、オランダにとっても砂糖は対日貿易の重要な商品だったのである。
*●は口偏に留、■は口偏に巴。

 以上のように、日本がまだ砂糖製造法に成功していない頃から、東アジア・東南アジアでは砂糖が産物となっており、これらの地は砂糖製造の先進地であった。


 次に、これらの産地の砂糖が、どのようなランク付けで当時考えられていたかをみていくことにしよう。

 吉宗が将軍に就く前年の正徳5(1715)年に刊行された、寺島良安による絵入り百科事典『和漢三才図会』には、「甘蔗さたうの木
紫◆くろさたう氷◆こほりさたう◆霜しろさたう石蜜」(写真5、6)の項目が記されている。これには、おおよその輸入量と、どこからの砂糖がいいかが記されている。
*◆は食偏に唐。
 
 
 
 
 この頃の輸入量は、黒砂糖はおよそ70〜80万斤。ベトナムの交趾からの黒砂糖が最上で、台湾・福州・シャムがそれに次いで、カンボジアのものは下級品としている。その他に琉球からも70〜80万斤がきて最下級品と位置づけている。また琉球では白砂糖と氷砂糖の製法はよく知らないのだろうか、黒砂糖のみと述べられている。

 白砂糖は、およそ250万斤が異国から来て、台湾のものが極上で、交趾のものがそれに次ぐとし、南京・福建・寧波がその次で、オランダの支配地、咬●■からのものは下級品であるとしている。

 氷砂糖は、およそ20万斤余りが各地から来るが、台湾のものを上等品としている。


 さて、貿易を許されていた唐船とオランダ船であるが、対価として支払う日本の金銀銅の流出を防ぐために、薬種および砂糖の国産化を目指したことは前号まででも触れた。

 それと同じ理由で、貞享2(1685)年、幕府は唐船6000貫目、オランダ船は3000貫目と貿易額の定高を決め、また、元禄元(1688)年には、唐船は70艘としか貿易を許さない政策に出た。しかも70艘は、各地に割り当てられた。以下はその割り当てである。

南京  10艘
普陀山 3艘  
寧波  12艘
福州  13艘
泉州  4艘
▲州  3艘
厦門  5艘
広東  6艘
潮州  2艘  
高州  2艘  
東京 (トンキン・ベトナム) 1艘
広南 (コウナン・ベトナム) 3艘
東埔寨(カンボジア)1艘
暹羅 (シャム) 2艘
太泥 (パタニ)1艘
咬●■(カラパアまたはカルパ・ジャワ島)2艘


 貞享元(1684)年に中国・清朝によって海外渡航禁止が解除されたこともあり、中国の地からが多く、その中でも日本に近い南京、寧波にんぽー(現浙江省東部の都市)、福州からの船数が圧倒的に多い(写真7、8)。

 さらに正徳5(1715)年には、定高は、唐船6000貫目と据え置きのまま、唐船の来港船数を30艘にまで縮小した。しかも出港地ごとに船数を決め、そしてあらかじめ日限と貿易高を決めて、近い将来に長崎へ入津するという予約システムをとった。その証拠として江戸幕府が貿易のために来日する唐船の船頭に通商免許としての割符「信牌しんぱい
」を発行し、「信牌」を持っていない船頭は、たとえ大量の荷物を積んで長崎へやってきても入津が許されなかった。この「信牌」システムは、幕末の安政の開港まで続けられた。

 このような貿易システムが変化したばかりの頃と、吉宗の将軍時代が重なっている。
 
 
 
 
 では、具体的にどのくらいの量の砂糖が日本に舶載されてきたのだろうか?

 他の産地から仕入れた可能性はあるものの、唐船の出港地とされる地名からみてみよう。たとえば享保20年には、29艘の唐船が来港しているが、半数弱の13艘の積荷の記録が残されている。その中から舶載されてきた砂糖の種類や量が下表である。
 
 
 この年の記録に残る船だけではあるが、すべての船に砂糖が舶載されていた。薩摩藩を通じて琉球と奄美諸島から黒砂糖が入ってきていたとはいえ、黒砂糖もまだ唐船によって輸入されていた。そして、まだこの頃の日本では成功していなかった白砂糖の輸入が圧倒的に多い。 

 吉宗の頃、まだ砂糖が庶民の手にまで届かなかった時代である。それもそのはず、輸入品がほとんどだったからだ。

 砂糖の国産化に成功して、庶民までも砂糖の味を知るようになるのは、まだまだ先のことである。

参考文献

永積洋子『唐船輸出入品数量一覧・1637−1833年:復元唐船貨物改帳・帰帆荷物買渡帳』創文社、1987年

大庭脩『享保時代の日中関係資料 一』関西大学東西学術研究所、1986年

山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』吉川弘文館、1964年

日蘭学会編『洋学史事典』雄松堂出版、1984年
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