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内外の伝統的な砂糖製造法(7)

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最終更新日:2012年1月10日

内外の伝統的な砂糖製造法(7)〜吉宗時代に幕府が入手した中国の製法〜

2012年1月

昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代

 吉宗の時代、すでに砂糖製造に成功していた海外からの情報も入ってきた。

 幕府が、享保10年か享保11年はじめに唐船の船頭らに、さとうきびの栽培法から砂糖製法の始終の仕方、人参の製法など薬種について尋ねたことを示唆する史料が残されている。その返事は、一度帰国してから、委細を尋ねて、再び来港した時に回答するというものだった。


 享保11年9月に厦門アモイの船頭李大衡リタイコウという人物が、幕府へ甘蔗栽培法、黒砂糖製法、白砂糖製法の書付を提出した。

 まず、この李大衡という人物からみていこう。  正徳5年から、唐船の船頭は、通商免許としての割符「信牌」をもっていることが必須となったことを、前号で書いた。大衡は、厦門から船を出し、南京の上海で仕入れを行い、唐人39人を乗せて享保8年11月23日に上海を出航して、同年11月28日に長崎に来港した。しかし、この時持参したのは、大衡に発行された「信牌」ではなく、享保6年に客商として来日していた顔啓惣ガンケイソウ
へ発行されたものだった。啓惣は、用事によって日本へ渡海することが出来なくなったので、商売仲間である大衡が彼の「信牌」を譲り受け、それを持って来港したのであった。大衡自身、この時が初めての来日ではなく、啓惣が乗っていた船の貿易事務を行う「筆者役」として一緒に同船していた。このいきさつがわかるのは、長崎に来港する唐船とオランダ船に、「風説書」という海外の情報を含む書付の提出を幕府が命じていたからである。大衡は、翌享保9年10月まで長崎に滞在し、自らに「信牌」を発行してもらって帰国した。その後、大衡は船頭として享保11年5月19日に来港し、10月13日まで滞在。その間の9月に砂糖製法に関する書付を提出したのだった。

 厦門は、台湾の横に位置し、前号で紹介した、中国の土産どさん
として砂糖が挙げられていた福建省泉州と▲州の地と近い(前号写真1参照)。大衡が書付として提出した砂糖製造法は、このあたりの中国の製造法とみていいだろう。
*▲はさんずいに章。

 当時、長崎には、「鎖国」とはいえ、コミュニケーションをとるには不可欠である通訳・翻訳業務を主として行うオランダ通詞と唐通事が常住していた。この専門技能集団は試験を通過しなければ上位の役には就けないほどのランクがあり、海外からの情報を一番に接することができる人々でもあった。大衡が提出した中国語の書付は、唐通事によって当時の日本語に翻訳された(写真1、2)。
 
 
 
 日本語に翻訳された訳文には、「譯者 游龍順内 官梅三十郎 C川永左衛門」と、翻訳した3人の名前が最後に記されている(写真3)。


 翻訳したのは、目付役であった游龍うりゅう順内(游龍雲藏)と、通詞の最高位である大通事の官梅かんばい三十郎、そして、最後に名前を連ねるC川きよかわ永左衛門は、享保13年にベトナムから生きた象が献上され、長崎から吉宗のいる江戸まで、はるばる象と同道した唐通事であった。
 
 
 では、大衡が提出した書付の内容をみていくことにしよう。少々長くなるが、中国語の原文を確認し、なるべく唐通事が翻訳した文章に沿いつつ紹介する。


黒砂糖の作り方

1.蔗には両種あり、一名は甘蔗、一名は竹蔗という。砂糖に煮るには、竹蔗を上とし、甘蔗を次とする。
2.蔗は、2月に植え、蔗の末(先端部分)を地に挿し、こやしに糞水をかけること3〜4度行い、10月にいたって、高さ6〜7尺になったら刈り取る。
3.石車を牛に引かせ、蔗の汁を搾り、この汁を鍋に入れ、およそ蔗の汁を200斤に石花のからの灰(牡蠣貝の殻の灰)を30〜40目ほど蔗の汁に入れ、一緒に煮る。
4.銅の網杓子を以て塵滓などをすくい去りながら煮、濃縮するに至って鍋の内の濃縮糖液がもし沸き上がって鍋から外へこぼれ出る時は、胡麻油の粕を少しばかり落とし入れれば、すぐおさまる。
5.鍋の中の濃縮糖液が熟したら、濃縮糖液を少し水に落とし入れ、それが固まるのをタイミングとし、一同に鍋から取り出し、(竹製の巨大な口径が広い駕籠様)に入れ置き、木刀で数度混ぜれば砂の如くになる。火気をさまし冷えると黒砂糖になる。


 黒砂糖の作り方は、8月号で紹介した現在奄美大島での製法と大差はないといえる。


 次に、白砂糖の製法を見てみよう。これが、逆円錐型の植木鉢のように底に穴のあいた容器(下記6)を使用して第一段階の分蜜を行い、さらに土を固化している砂糖の上に乗せて第二段階の分蜜を行って白くする方法なのである。3月号で記した、現在日本で行われている「和三盆」の製造技術とは、全く異なる方法が記されているのだ。


 白砂糖を作る法

1.蔗の汁を鍋に入れ、およそ200斤程に石花のからの灰(牡蠣貝の殻の灰)を30〜40目を蔗の汁に入れ、一緒に煮沸かす。
2.銅の網杓子をもって塵滓をすくい取り、数度煮え上がったら鍋から取り上げて、桶に移し、塵滓を桶の底に沈める。
3.桶は半分の高さより下に2つ穴を開け、木の栓で塞いでおき、木の栓を抜いて、清汁を鍋の中に流れ入れて、再び桶の上部の清い汁を煮る。
4.濃縮糖液が飯の取り湯のようになったころを目安とする「二甘」になったら、また、濃縮糖液を鍋から取り上げて半ばより下に穴を開けた木の栓を塞いだ桶に入れ、塵滓を沈め、桶の木の栓を抜いて、清汁を鍋の中に流れ再び煮る。
5.鍋の中の濃縮糖液が煮え沸きあがり溢れ出るときは、胡麻油の滓を少しばかり入れればおさまる。
6.煮詰めて、米の糊のようになった頃を目安とする「三甘」になったら、濃縮糖液20斤を取り上げて、「糖漏」という、高さ2尺3〜4寸、円周1尺5寸の下細りの底が3〜4寸の丸い焼き物の底に、2寸の穴を開けた容器に、底の穴を塞いでこの濃縮糖液を入れ、鉄懴てつざん
(鉄製のヘラ)で容器の周囲を数度突く。
7.鍋の中に残っている濃縮糖液をさらに煮詰め、地黄煎(じおうせん)(漢方の強壮補血剤で粘性がある)のような固さになった頃を目安とする「四甘」になったら、30斤を鍋から取り上げ、「糖漏」の中に入れ、鉄懴を使って周囲を数度突く。
8.鍋の中に残っている濃縮糖液をさらに煮て、濃縮糖液を少し取って水に落とし、龍眼肉(中国南部からインドにかけてが原産地というライチに似た熟した果実を半乾燥したもの)くらいの固さに固まるのを目安とする「五甘」になったら、鍋の中の濃縮糖液をすべて取り出して、「糖漏」の中に入れ、鉄懴を使って数度突けば、砂糖の結晶が現れてくる。
9.その後、10日余り経って砂糖がすでに冷えて固まった時、「糖漏」の底を塞いでいた栓を取り、モラセスを滴り落とす。
10.モラセスがほぼ滴り尽きた時、じゅる土(水分を含んだ土)を10斤程「糖漏」の上に覆い置くと、またモラセスが滴れ落ちる。
11.土が硬くなるのを待って、土を取り去ると、砂糖が少し白くなる。
12.再びじゅる土を10斤程「糖漏」の上に覆い置くと、またモラセスが滴り出る。
13.土が硬くなるのを待って土を取り去ると、砂糖が白くなっている。
14.その後、「糖漏」の中の砂糖を取り出し、干し乾かすと白砂糖になる。


 白砂糖の作り方は、先ず第一に、さとうきびのジュースを煮詰めるにしたがって、その濃縮度を「二甘」から「五甘」までの目安を必要としていることに特色がある。黒砂糖の作り方には、ここまで段階的な濃縮度のチェックと操作はみられない。

 そして、この白砂糖の作り方は、「覆土法」と呼ばれる、水分を含んだ土を半固化状態の砂糖の上に乗せて分蜜を促進させる方法である。

 3月号でも書いたが、「水分を含んだ土を使う!?」「白くするのに、土?」「逆に汚くなってしまうのでは?」と、私がびっくりした方法である。

 江戸時代の享保年間にこの情報に接した日本人も、さぞかしびっくりしたに違いない。
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