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内外の伝統的な砂糖製造法(10)

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最終更新日:2012年4月10日

内外の伝統的な砂糖製造法(10)
〜砂糖生産先進地、宝暦年間に尾張藩へ伝えられた製法〜

2012年4月

昭和女子大学国際文化研究所 客員研究員 荒尾 美代

 前号では、宝暦6(1756)年に、現在の下関市あたりに位置する長府藩へ幕府の役人が出向いて、砂糖製造法の伝授を受けたという話を書いた。長府藩の内田屋孫右衛門兄弟に砂糖製造法を伝授したのは、長崎出身の慶右衛門という人物で、尾張へ砂糖製造法を伝授した人物でもあった。このいきさつが、前号でも紹介した史料『長府御領砂糖製作一件』の中に記されている。この史料によると、尾張では、宝暦6年の12年前から砂糖生産に取り組んでいたという。

 尾張国知多郡大野村でさとうきびが植えられていたのを、吉宗時代である享保年間から幕命によって各地に赴いて薬草を調査する採薬使の一人であった松井重康が見ている。残念ながら「いつ見たのか」は定かではないが、宝暦3(1753)年以前のことで、この頃重康は80歳を越えていたので、当然それよりも若い頃ということになろう。尾張藩領でさとうきびが早くも栽培されていたという先の史料を裏付けているといえよう。

 長府藩の内田屋孫右衛門の話に戻ると、長崎出身の慶右衛門に、尾張へ行くように口を聞いたのが孫右衛門自身だったので、慶右衛門は、尾張へ行って製法を伝授するよりもまず先に、孫右衛門3兄弟に伝授をしたという。慶右衛門は、長崎に来日していた唐人から砂糖製造法を学んだと孫右衛門は聞いていた。

 この慶右衛門が、宝暦4(1754)年11月に、「砂糖製作人」として、尾張藩に金10両3人扶持で召し抱えられた。


 さて、この慶右衛門の製法とはどのようなものであったか。


 ちょうど、慶右衛門が尾張藩のお抱え砂糖製作人となる直前の宝暦4年10月14日と27日に、尾張大野において行われたさとうきびの圧搾と煮詰め工程の実録を含む「尾陽何某傳」なる「糖製秘訣」(川崎市市民ミュージアム蔵の池上家文書「糖製秘訣」『砂糖製法秘訣』所収)という史料がある。尾陽とは尾張のことであるので、この史料は,尾張の誰かの伝法を収録したもので、さとうきびの栽培法から分蜜法に至るまでが詳細に記されている技術指南的な部分と、尾張の地域性に基づいた製法の記述、および尾張大野での実際の製糖記録によって構成されている。

 かつて私は、この史料こそ、「砂糖製作人」として尾張藩に抱えられた慶右衛門による砂糖製造の実録および技術指南書ではないかと考察した。(詳しくは荒尾美代「尾張藩における宝暦 (1751-1763)の白砂糖生産−史料「糖製秘訣」の原作者をめぐって−」『科学史研究』第45巻 No.239 (2006)、33〜38頁、日本科学史学会編を参照されたい。)

 この技術指南的な部分の記述は、かなり細かく書かれているので、その一部を紹介しよう。


 まずは、煮詰め工程から・・。

1.さとうきび100本からおよそ6升から7升のジュースが取れる。

2.大釜の上に桶かわをかけて竈に据えて、ジュース1石を入れる。

3.煮え上がる時に、絹製の水嚢(すいのう)の中に「薬」をジュース1升に付き4匁の積もりで、その4匁の内、3匁4分程を大釜の中に入れ、炊き上がる糖汁の中で暫く水嚢を振り回すと、「薬」の成分が糖汁の中に溶けて、水嚢の中には、「薬」の垢のみが残る。

4.さらに鍋を焼くと、青黒白の灰のように青く咲いたように垢が出てくるので、それを水嚢で静かに取り除く。

5.さらに煮詰めると、白い垢が出るので、また水嚢で取り上げると、この時までに、ジュース1升が6合ほどに煮詰まっている。

6.竈の火を消し、鍋の中の沸き上がりを静め、上下に穴が開いている大桶に、その穴の栓をした上で、漉し布を通してその濃縮糖液を入れる。

7.濃縮糖液の量によって時間を見計らって、暫時澱を澄ます。

8.揚げ鍋に油を引き、その濃縮糖液を漉し入れて再び加熱する。

9.炊き上がるのを見てから、使い残しの「薬」を同様に入れる。

10.その後、強火にして煮詰め、次第に水分が減って強く沸き上がり、また静まり、水気が残らず消失して、ぶくぶくと上がる泡ばかりになった時に、弱火にしてそろそろと焼き静める。

11.茶碗に清水を入れ、杓子で濃縮糖液を落としてみて、煮詰まり具合をみる。

12.煮詰まり具合が宜しい時に、至極手早く、俵に水をしっかりと浸し、これを竈の中に入れて火気を即時に冷ます。

13.濃縮糖液は、瓢(ふくべ)の柄杓で、「瓦溜」へ汲み入れる。


 さて、この煮詰め工程では、「薬」を2度に分けて使用しているが、この「薬」について、詳しく記されている。まず、この時に使用する「薬」の正体は、尾張では「ちんみ貝(サルボウカイ)」という貝で、この貝を水で良く洗って塩気を取り、焼いて粉にしたものだった。

 「瓦溜」は、知多半島の常滑で焼く素焼きの真焼の壺とし、底に穴が開いており、底に開いている穴に栓を挿して、煮詰めた濃縮糖液を入れ、固まったら底の栓を抜いて、蜜を去るとしている。


 では、次に分蜜法についてみていくことにしよう。前号まででも何度か紹介している植木鉢のように底に穴が開いている容器「瓦溜」で第1段階の分蜜を行い、その後、土を乗せて第2段階の分蜜を行う方法(覆土法)である。

1.濃縮糖液を「瓦溜」に入れ、熱湯を一杯飲むほどの時間が経ったら、幅1寸5分程、長さ2尺程の、先が薄くなっている薄板の箆(へら)で、「瓦溜」の縁を静かに4回ほど突き混ぜる。「瓦溜」の中央は決して突き混ぜてはいけない。

2.しばらく経ってから同様に突き混ぜる。このように箆を入れることを4回程繰り返すと、徐々に砂糖の結晶が現れてくる。

3.2、3時そのまま置いておくと、全体に結晶化が進行し、しっかりと固まる。しかし、蜜を含んでいるので粘りがあり、2日程経ったら「瓦溜」の底の〔穴に入れてある〕栓を抜いて、蜜を垂らし,〔「瓦溜」の〕下に置いてある容器で受ける。

4.このまま4、5日置いて、上部に晒し土をかける。

5.約7日程置いておくと、晒しをかけているので蜜はさらに垂れる。上に置いた土は乾くので、自然に土と砂糖とが離れて〔土は〕カラカラになる。この時に、一番晒しの砂糖を〔「瓦溜」の中から〕取り揚げる。〔取り揚げた砂糖は〕湿り気があるので、一両日陰干しする。

6.再び晒しをかける方法、取り揚げ方は一番晒しと同じようにするが、二番晒しから「薬」を土に合法して〔砂糖の上に土を〕かける。

7.晒す方法は二番晒しと同じようにして、大概三番四番まで〔晒しを〕行って、「瓦溜」から残らず〔砂糖を〕取り揚げる。 

*〔 〕内は筆者による補いである。以下同様。


 「覆土法」の土は、5にあるように、カラカラになるまで載せている。

 そして6には、1回目の「覆土法」が終わって、逆円錐状の砂糖の最上部の砂糖を取り出し、その下の部分に行う2回目以降の「覆土法」に使用する土には「薬」を合わせるとしている。瓦溜の中で固まっている砂糖は,上部から重力によって蜜が移動してくるので、下部になるほど蜜が多く、したがって色も濃い。蜜が多く含まれている部分の脱色に使用する土には、「薬」を合わせることが必要としていることが興味深い。しかしこの「薬」は、煮詰め工程の清浄時に使用する「ちんみ貝の粉」であるかどうかは不明である。


 さらにこの史料には、「覆土法」に使用する具体的な土について記されている。

1.真土(まつち)(耕作に適している良質の土)の田の底にある、とてもアクの強い土が良い。

2.真土の色に、所々に青yの粉のような色が混じっている土で、それがなければ用に立たない。

3.〔土の選択は〕手に取って見なければ、はっきりとはわからないことである。


 「覆土法」の土が、これほど具体的に書かれている史料はあまりない。田の底の土というのは、10年以上前のことになるが、ベトナムでの「覆土法」技術を採録したときも、やはり田の底の土を使用していた。

 宝暦5(1755)年5月14日、尾張産の白砂糖が藩主の元へもたらされた。これこそ、知多半島の大野で昨年晩秋から作られた、白砂糖ではなかったか。


 慶右衛門は、明和5(1768)年4月28日に病死していることが、尾張藩の藩士の記録に残されている。長崎から長府へ、そして最後は、尾張で砂糖製造法の実践を伝え、おそらく尾張の地で亡くなった砂糖製作人の名が、尾張藩の正式記録に残されていることが、この人物の終焉を飾っているといえよう。まだ、この時期、江戸を中心とした本草学者等は、中国からの書物や、1月号で紹介した砂糖製造法の書付による、いわゆる「文字」からの研究であったのに比べて、慶右衛門は「実学」の実践者だった。砂糖製造法を尾張のみならず長府藩へ伝授し、それがさらに又伝授で幕府江戸城吹上の砂糖製作人に伝わったことで、慶右衛門は砂糖の国産化に向けて大きな足跡を残したと言えよう。

  さて、実際に尾張藩領で砂糖生産に従事したのは、庄屋クラスの農民・豪農である。さまざまな史料から、知多半島の村々で宝暦年間に砂糖生産に着手していた3人の名前がわかっている。まず、早くからさとうきびの栽培が確認されている大野村では、庄屋の平野惣右衛門。平野家は、天正10(1582)年、本能寺の変の直後、家康が大野の平野彦左衛門邸に泊り、岡崎に逃げ帰ったという由緒が伝えられている。

 次に生路村の原田喜左衛門。喜左衛門も宝暦7(1757)年には少なくとも白砂糖製造に成功していた。

 最後に平島村の安右衛門である。安右衛門の弟は、上杉鷹山の師、細井平州である。


 この平島村、現在は愛知県東海市荒尾町に位置している。そう、私の先祖の出身地なのである。我が家のルーツを訪ねるのを兼ねて、かつて、この地に行ってみた。

 東京に住んでいる私にとっては、なんと温暖な地であるのか!と、感じたのが第一印象であった。さとうきびの栽培には、うってつけの地と感じた。役場の方のお話では、かつてはあちこちにさとうきびが植わっていて、茎をかじって食べたことがあるとのことだった。

 今は、砂糖生産とは全く関係が無くなっている荒尾町であるが、その温暖な気候が、かつてのさとうきび畑を彷彿とさせた。
このページに掲載されている情報の発信元
農畜産業振興機構 調査情報部 (担当:企画情報グループ)
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