
ホーム > 砂糖 > 調査報告 > てん菜 > てん菜糖業の始まり
最終更新日:2020年8月11日
フランスではアハルトによるてん菜の根中からの砂糖の発見に関して、その真偽を確認するための試験委員会が1799年5月20日に設置された。そして、慎重な実験の結果、アハルトの実験結果が疑う余地のないことが同委員会から1800年6月25日に報告された。その後、アハルトは1808年10月2日にてん菜糖の試験と研究結果についてのフランス語の報告を公表した。1800年にアハルトの方法についての最初の報告を書いた化学者のドゥジューは、1809年10月9日にフランス科学アカデミーに審査を申し立てたので、アハルトの実験がやり直された結果、1810年11月19日にドゥジューは化学者のバリュエルとともにてん菜糖は甘しゃ糖と主成分が同じであることを国立研究所に報告した。彼らは実験の結果として製造した2個のてん菜糖の棒砂糖を研究所へ提出し、そのうちの1個は内務大臣モンタリヴェを通してナポレオン(1769〜1821年:皇帝在位1804〜14、15年)へ1811年1月に手渡された。1811年3月25日にはフランスにおけるてん菜製糖の導入に関するナポレオンの最初の布告が発布された。布告では3万2000ヘクタールの土地でてん菜を栽培し、てん菜製糖の教育のために6カ所の実験学校を建設することになったが、てん菜種子の不足のため実際には6785ヘクタールで栽培されたに過ぎず、そのうえ工場が少なすぎたため、収穫したてん菜をすべて処理することができなかった。しかし、ナポレオンの布告はてん菜糖業振興の契機となり、製糖工場経営者たちはアハルトの作業法を学び、教えを仰ぐために彼の居住地のクネルンへ足しげく通うことになった。その結果、ボヘミアのすべての製糖工場経営者は、アハルトの弟子であると言われた。プロイセンの化学者ヘルムシュテットは1796年当時、カエデ糖の実験を行っていたが、1811年には『てん菜からの砂糖と利用できる糖蜜の実用的・経済的な製造ならびに同じもののその他の利用のための手引書』を作成し、てん菜製糖の推進者となった。さらに、クレーベ(ドイツ北西部)のM.F.S.ジンシュテーデンは1811年に『ヨーロッパの製糖に関するアハルト所長とフォン・コッピー氏の著作から抜粋し、ルール県の農民に捧げたてん菜栽培の簡潔な説明書』を公表し、てん菜栽培の普及に尽力した。
歩み始めたばかりのてん菜糖業に関心を抱いていたナポレオンは、1812年1月2日にパリ近郊のパッシーのてん菜製糖工場を訪問し、その後1月15日にてん菜製糖に関する第2の布告を発布した。この布告では10万ヘクタールの土地でてん菜を栽培し、4つの国営工場を建設することで1812/13年期には合わせて2000トンの粗糖を生産する計画であった。しかし、フランスのてん菜栽培面積は計画を下回り、158工場が操業していたものの産糖成績は思わしくなかった。欧州世界に君臨したナポレオンは、1812年6〜10月のモスクワ遠征で大敗を喫し、1813年10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍はプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍に敗れた。大陸封鎖の終焉そしててん菜糖業の保護者としてのナポレオンの権威の失墜は、てん菜製糖工場経営者に致命的な打撃を与えた。1813年秋にはオーストリアの海港トリエステとフィウメ(現・クロアチアのリエカ)がフランスから解放されたので、海外からの粗糖が非常に安い価格で欧州に流入した。1814年5月末にはフランス軍がハンブルクを撤収したので、同地の精製糖業者たちは古くから経営してきた精製糖業を再開した。
てん菜糖業の草創期にあり、国内需要を充足していなかったオーストリアとプロイセンのてん菜糖は、英国の甘しゃ糖には太刀打ちできず、両国の大部分のてん菜製糖工場は1814年には存続していなかった。同年にアハルトの弟子のフォン・コッピーが亡くなり、クラインのてん菜製糖工場(1811年の火災の後再建された)は息子のG.F.W.フォン・コッピーが後を継いだ。てん菜の処理量は、父フォン・コッピーの時代と比べれば多くはなかった。1821/22年稼働期の後、彼は製糖を止め、てん菜種子の品種改良に取り組んだ。
アハルトの1818年12月の報告によると、1807年の火災で焼失したクネルンの工場はその後再建され、1810年から1815年まで操業し、1812年1月12日に開設された製糖の教育施設では理論的かつ実践的な授業が1814年まで外国人の38人の生徒に行われた。生徒は手紙で「アハルトの製糖の教育施設では徹底的に勉強させられた。アハルトは活発な人で、マルク(ブランデンブルク)の方言を話す学者の典型である」と記している。てん菜からの欧州の製糖の創始者アハルトは、1821年4月20日(68歳の誕生日の8日前)に亡くなり、クネルンで埋葬された。