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てん菜糖業の始まり

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最終更新日:2020年8月11日

てん菜糖業の始まり

2020年8月

 
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神戸国際大学名誉教授 (こめ)(なみ )(のぶ)()

【要約】

 てん菜は世界の主要な砂糖原料の一つであるが、てん菜糖業は甘しゃ糖業と比較すると歴史が浅く、先人の幾多の苦労の末に産業として成立してきた。本稿では、欧州と米国におけるてん菜糖業の草創期について紹介する。

1.欧州におけるてん菜糖業の草創期

(1)てん菜を原料とした砂糖の製造方法の確立

 われわれは現在では、砂糖を主にサトウキビとてん菜から製造している。前者は栽培植物化されたものがニューギニアで紀元前1万5000〜8000年に存在したという古い歴史を有しているのに対し、後者の歴史は新しい。人類はサトウキビ以外の植物(ヤシ、トウモロコシ、カエデなど)から砂糖を製造できることは知っていた。しかし、生産量は少なく、採算が取れず、工業化されることはなかった。

 サトウキビを栽培していない国々は、砂糖の輸入に多額の支出が必要であった。そのため、各国は砂糖を製造できる自国の植物の研究をすることになった。ベルリン生まれのA.S.マルクグラフ(1709〜82年)(図1)は、父親の下で薬剤学を学び、ハレ(ドイツ中部)で化学と医学を研究し、フライベルク(ドイツ東部)の鉱山大学でも学んだ。彼は1735年から父親の薬局で働き、1738年にはベルリン科学協会(後の王立科学アカデミー)会員になり、1744年から植物の液についての体系的な研究に取り組んだ。そして、1747年に自国の植物における砂糖についての観察結果を王立科学アカデミーに報告し、てん菜の根中から抽出した砂糖(てん菜糖)は、甘しゃ糖と主成分が同じであることを発見した。1749年には『さまざまな自国の植物から本物の砂糖を抽出する化学実験』と題する研究報告をラテン語からフランス語に翻訳のうえ、同アカデミーで発表した。マルクグラフはてん菜糖実験を繰り返して鋭い観察をし、慎重に結論を出す化学者であった。しかし、てん菜からの製糖には費用がかかるうえ、当時のドイツではてん菜栽培と製糖という産業的応用の前提を欠いていたために、てん菜糖業の実現には至らなかった。
 
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 マルクグラフによるてん菜の根中からの砂糖の発見から半世紀余りの歳月が過ぎ、彼の弟子で助手のF.K.アハルト(注)(1753〜1821年)(図2)はてん菜製糖の実現に大きな一歩を踏み出すことになった。彼は1784年からベルリンの近くのカウルスドルフの農場でできるだけ糖分含有量の多いてん菜の栽培に取り組み、地道な努力の結果、1798年12月末にてん菜からの砂糖抽出実験に成功し、翌1799年1月11日にてん菜からの製糖についての論文とそれに関する書類と見本をプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770〜1840年:在位1797〜1840年)宛てに提出し、国家にとってのてん菜糖業の重要性を訴えた。当時のプロイセンは砂糖の輸入に毎年300万ターラー(当時の通貨単位)の巨額を支出しており、てん菜糖で代替することが課題となっていたので、国王もアハルトの研究に関心を持っていた。同年1月26日にはJ.D.F.ルンプフの匿名のパンフレット『インドの砂糖の最新のドイツの代表者または18世紀の最も重要で有益な発見であるてん菜からの砂糖』が発行され、広く読まれた。
 
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 アハルトのてん菜糖製造の報は英国、フランス、ロシアにも伝わり、彼は一躍有名人になった。しかし、てん菜糖の出現は植民地産粗糖を使用する精製糖工場や植民地砂糖貿易に携わる人々にとっては既存の利益を脅かされることになり、彼らの意見を代弁したビュッシュ教授の「てん菜から出来た砂糖に関するいくつかの事象の疑惑」と題する論説が1799年2月7日に発表された。さらに、C.A.ネルデヒェンは『いわゆるてん菜の栽培について、そしてこの植物からの製糖を狙うさまざまな試験について』(1799年)を著し、アハルトの発見に対して反論したが、J.D.F.ルンプフは『ドイツの金のなる木またはどの国内の製品によって外国のコーヒー、茶および砂糖を可能な限り取って代わることができるか?』(1799年4月)において、アハルトに対するネルデヒェンの非難を逐一退けた。

 アハルトがマルクグラフの発見を応用し、てん菜糖の製造方法を示したことに対して、異論や批判があったが、各国での再現実験の結果、アハルトの示した方法の正しさが証明された。国王はアハルトに毎年1500ターラーの手当を支給し、製糖工場建設用の土地購入に5万ターラーを提供した。アハルトはシュレージエン州ヴォーラウ郡(現・ポーランドのヴォウウフ)のオーバー・クネルンとニーダー・クネルンの土地を4万6000ターラーで取得し、1801年に世界最初のてん菜製糖工場を建設した。そして、同年秋には250トンのてん菜を収穫し、翌1802年3月から製糖を開始して毎日100ツェントナー(5トン)のてん菜を処理し、約400ポンド(200キログラム)の粗糖を生産した。アハルトは工場建設後、最初の稼働期に得た経験を取りまとめ、『製糖に使用可能なてん菜の栽培とそれからの有利な製糖のための便覧』と題するパンフレットを1802年10月23日に公表した。その第1部はてん菜の選択、土壌の性質、適切な施肥、第2部は粗糖製造、工場で使用する簡単な装置について記されていた。マルクグラフはアルコールを用いて砂糖を抽出したが、アハルトはてん菜液汁を硫酸で精製し、木灰(後には焼いた石灰、白亜土)で中和させた。アハルトは1805年にクネルン製糖工場での経験を踏まえて『シュレージエン州クネルンでのてん菜製糖に関する報告』と題する著作を公表し、同時に工場製品の試料小箱も販売し、てん菜製糖の推進と普及に努力した。しかし、アハルトが心血を注いで築き上げたクネルン製糖工場は、1807年3月21日の火災で、貯蔵品、機械・器具、住宅と管理事務棟を焼失した。

 アハルトの弟子で、プロイセンの陸軍少佐、男爵のモーリッツ・フォン・コッピー(1749〜1814年)(図3)は、シュトレーレン(現・ポーランドのストシェリン)近くのクラインで製糖工場を建設し、アハルトの方法に従って稼働した。アハルトは1809年に彼の知識を総括した主著『著者フランツ・カール・アハルトによって記述され、銅版画で説明している火酒、ラム酒、酢および廃物からのコーヒー代用品の製造と関連するてん菜からのヨーロッパの製糖』を刊行した。その第1部はてん菜の栽培と収穫、第2部は製糖機械・器具、第3部は工場での職務上の記録から構成されていた。コッピーはクライン製糖工場での経験に基づき、1810年に『経済的および国家経済的観点でのてん菜製糖』と題する著作を公表した。アハルトのクネルン製糖工場は500トンのてん菜の処理を想定していたが、コッピーのクライン製糖工場は700トンのてん菜の処理を想定して建設したものの、実際のてん菜処理量はこの想定をはるかに下回っていた。コッピーはてん菜糖業における最初の企業家であり、彼の活動は学術的研究と最善のてん菜製糖法の探究に向けられていた。しかし、4万ターラーの建設費を投じたクライン製糖工場は、1811年6月2日の火災で焼失した。

(注)アハルトの両親はフランス人であり、「アシャール」と記すべきであるが、彼はベルリン生まれで、マルク(ブランデンブルク)の方言を話し、一生の間プロイセン人としての感情を持っていたと言われていることから、本稿ではドイツ語の発音で「アハルト」と表記している。
 

  

(2)ナポレオン帝政時代のてん菜糖業の振興と衰退

 フランスではアハルトによるてん菜の根中からの砂糖の発見に関して、その真偽を確認するための試験委員会が1799年5月20日に設置された。そして、慎重な実験の結果、アハルトの実験結果が疑う余地のないことが同委員会から1800年6月25日に報告された。その後、アハルトは1808年10月2日にてん菜糖の試験と研究結果についてのフランス語の報告を公表した。1800年にアハルトの方法についての最初の報告を書いた化学者のドゥジューは、1809年10月9日にフランス科学アカデミーに審査を申し立てたので、アハルトの実験がやり直された結果、1810年11月19日にドゥジューは化学者のバリュエルとともにてん菜糖は甘しゃ糖と主成分が同じであることを国立研究所に報告した。彼らは実験の結果として製造した2個のてん菜糖の棒砂糖を研究所へ提出し、そのうちの1個は内務大臣モンタリヴェを通してナポレオン(1769〜1821年:皇帝在位1804〜14、15年)へ1811年1月に手渡された。1811年3月25日にはフランスにおけるてん菜製糖の導入に関するナポレオンの最初の布告が発布された。布告では3万2000ヘクタールの土地でてん菜を栽培し、てん菜製糖の教育のために6カ所の実験学校を建設することになったが、てん菜種子の不足のため実際には6785ヘクタールで栽培されたに過ぎず、そのうえ工場が少なすぎたため、収穫したてん菜をすべて処理することができなかった。しかし、ナポレオンの布告はてん菜糖業振興の契機となり、製糖工場経営者たちはアハルトの作業法を学び、教えを仰ぐために彼の居住地のクネルンへ足しげく通うことになった。その結果、ボヘミアのすべての製糖工場経営者は、アハルトの弟子であると言われた。プロイセンの化学者ヘルムシュテットは1796年当時、カエデ糖の実験を行っていたが、1811年には『てん菜からの砂糖と利用できる糖蜜の実用的・経済的な製造ならびに同じもののその他の利用のための手引書』を作成し、てん菜製糖の推進者となった。さらに、クレーベ(ドイツ北西部)のM.F.S.ジンシュテーデンは1811年に『ヨーロッパの製糖に関するアハルト所長とフォン・コッピー氏の著作から抜粋し、ルール県の農民に捧げたてん菜栽培の簡潔な説明書』を公表し、てん菜栽培の普及に尽力した。


 歩み始めたばかりのてん菜糖業に関心を抱いていたナポレオンは、1812年1月2日にパリ近郊のパッシーのてん菜製糖工場を訪問し、その後1月15日にてん菜製糖に関する第2の布告を発布した。この布告では10万ヘクタールの土地でてん菜を栽培し、4つの国営工場を建設することで1812/13年期には合わせて2000トンの粗糖を生産する計画であった。しかし、フランスのてん菜栽培面積は計画を下回り、158工場が操業していたものの産糖成績は思わしくなかった。欧州世界に君臨したナポレオンは、1812年6〜10月のモスクワ遠征で大敗を喫し、1813年10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍はプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍に敗れた。大陸封鎖の(しゅう)(えん)そしててん菜糖業の保護者としてのナポレオンの権威の失墜は、てん菜製糖工場経営者に致命的な打撃を与えた。1813年秋にはオーストリアの海港トリエステとフィウメ(現・クロアチアのリエカ)がフランスから解放されたので、海外からの粗糖が非常に安い価格で欧州に流入した。1814年5月末にはフランス軍がハンブルクを撤収したので、同地の精製糖業者たちは古くから経営してきた精製糖業を再開した。


 てん菜糖業の草創期にあり、国内需要を充足していなかったオーストリアとプロイセンのてん菜糖は、英国の甘しゃ糖には太刀打ちできず、両国の大部分のてん菜製糖工場は1814年には存続していなかった。同年にアハルトの弟子のフォン・コッピーが亡くなり、クラインのてん菜製糖工場(1811年の火災の後再建された)は息子のG.F.W.フォン・コッピーが後を継いだ。てん菜の処理量は、父フォン・コッピーの時代と比べれば多くはなかった。1821/22年稼働期の後、彼は製糖を止め、てん菜種子の品種改良に取り組んだ。


 アハルトの1818年12月の報告によると、1807年の火災で焼失したクネルンの工場はその後再建され、1810年から1815年まで操業し、1812年1月12日に開設された製糖の教育施設では理論的かつ実践的な授業が1814年まで外国人の38人の生徒に行われた。生徒は手紙で「アハルトの製糖の教育施設では徹底的に勉強させられた。アハルトは活発な人で、マルク(ブランデンブルク)の方言を話す学者の典型である」と記している。てん菜からの欧州の製糖の創始者アハルトは、1821年4月20日(68歳の誕生日の8日前)に亡くなり、クネルンで埋葬された。

2.米国におけるてん菜糖業略史

 北アメリカ大陸における砂糖の製造は、17世紀のオランダ人開拓者たちが手仕事として砂糖精製を行ったのが最初である。18世紀に入り、1728年のニューヨークの都市計画では、サミュエル・ベイヤードの精糖所が記録されている。1754年にはピーター・リヴィングストンが精糖所を建設し、オランダ人から2人の同郷人が砂糖精製の技術を学んでおり、そのうちの1人はフランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882〜1945年:第32代米国大統領〈1933〜1945年〉)の祖先であるアイザック・ルーズベルトであった。ロンドンで砂糖精製技術を習得したドイツ人移民のフリードリヒ・C・ハーヴェマイヤーとヴィルヘルム・F・ハーヴェマイヤーは、1799年にニューヨークに来て、1803年に職人5人を雇い、ヴァンダム通りでハーヴェマイヤー精糖所を開設した。その後、同精糖所は1861年にハーヴェマイヤー・アンド・エルダー社という社名でウィリアムズバーグ近くのイーストリバーに移転し、後にはスタンダード・オイル社と並ぶ最も強大なトラストを形成した米国精製糖会社(1891年設立)となった。

 欧州では19世紀早々に始まったてん菜糖業は、米国ではペンシルべニア州フィラデルフィアのフランクリン研究所所長ジェームズ・ロナルドソンが1830年ごろにてん菜糖業導入の計画を立てたのが最初である。彼は欧州で同じ計画を持っていたジョン・ヴォーガンとジャコブ・スナイダーの仲介でジャコブ・ペッダーとフィラデルフィアでてん菜製糖工場を建設する契約を1836年2月6日に結んだ。ペッダーは2月8日に製糖業の研究のためにフランスへ旅立ち、5月16日には研究成果の暫定的な報告とともに300キログラムのてん菜種子を送った。彼の留守中、フィラデルフィアではてん菜糖業導入プロジェクトへの関心が高まり、フィラデルフィアてん菜製糖協会が設立された。ペッダーは8月に帰国し、協会所属のシャーマン社へ40ページの最終報告を提出した。しかし、社員の誰もてん菜栽培の実際の知識はなく、5月に届いたてん菜種子は遅く播かれたため、収穫したてん菜は家畜の飼料にしかならなかった。

 米国のてん菜製糖工場は、ナポレオンの下で化学者のバリュエルと共同で実験を行った、当時ストラスブール(フランス北東部)の製糖実験学校校長をしていたイスナールが、マサチューセッツ州ノーサンプトンでエドワード・チャーチ(パリ近くの農場で暮らしていた)、デイヴィッド・リー・チャイルド(フランス、ベルギー、ドイツのてん菜糖業を研究していた)と共同で1838年に建設したのが最初である。イスナールはフランスからてん菜種子を調達し、農場主に配布した。1ヘクタール当たり29〜34トンのてん菜が収穫され、てん菜の糖分は7.5〜9%であり、1839年には590キログラムの砂糖を生産した。しかし、1841年には経済的困難が生じ、工場はわずか3年間操業しただけで閉鎖された。

 1837年にはミシガン州ホワイト・ピジョンで農場主と市民がてん菜製糖会社を設立し、1838年に州から5000ドルの貸し付けを得て工場を建設した。しかし、工場経営は技術不足のために失敗し、1840年に閉鎖された。

 その後10年余りが経過し、ユタ州ソルトレーク・シティでモルモン教徒によっててん菜製糖工場が建設されることになった。ユタ州は精製糖工場のある米国北東部地域からは遠隔地にあるため、輸送費がかさみ、砂糖は高価格で販売されていた。そのため、モルモン教創設者ジョセフ・スミス(1805〜44年)の後継者ブリガム・ヤング(1801〜77年)は、砂糖を州内で製造する決意を固めた。そして、彼はフランスでのモルモン教伝道者として生活し、そこでてん菜製糖を知ることになったジョン・テイラー(1808〜87年)に工場建設に当たらせた。工場の機械設備は、1万2500ドルでリヴァプールのフォーセット、プレストン社に発注した。機械は1852年4月にニューオーリンズに到着したが、ミシシッピ川とミズーリ川の舟運、さらに馬車での陸路の輸送に困難を極め、11月になってようやくユタ州に到着した。さらに、別の機械も1853年に到着し、工場は操業を開始した。しかし、従業員はてん菜製糖の技術的な経験を欠いていたため、結晶した砂糖の製造に失敗し、工場は1855年3月に閉鎖された。

 米国のてん菜糖業の歩みは、決して順調とは言えなかった。最初のてん菜製糖工場の操業開始から30年後の1868年にはドイツ人のE.T.ゲナートとヨーゼフ・ブンは、イリノイ州チャッツワースでゲルマニアてん菜製糖会社を設立した。工場は機械の具合が良くなかったため、毎日50トンのてん菜を処理したに過ぎず、てん菜の糖分は12.5%であったが、砂糖歩留まりはわずか3.5〜5.5%であった。工場は1871年にはヨーゼフ・ブンが専有することになり、すべての機械はイリノイ州フリーポートへ輸送し、工場を操業したが、その後機械の一部はウィスコンシン州ブラックホークで売却し、工場を建設したものの、長続きせず、1875年に閉鎖した。

 ドイツ人のボーネンシュティールとオットーは、1868年にウィスコンシン州フォン・デュ・ラックで1万2000ドルを支出して、毎日10トンのてん菜を処理する工場を建設した。工場は7%の砂糖歩留まりを達成したが、2年間稼働した後、操業を断念した。

 米国におけるてん菜糖業の父と称されているE.H.ダイアー(1822〜1910年)は、1870年にカリフォルニアてん菜製糖会社を設立した。そして、ドイツ人の経験豊かな製糖専門家オットーと化学者のクライナウと提携し、カリフォルニア州アルバラードで12万5000ドルを投じて製糖工場を建設した。工場の機械は、前述のウィスコンシン州フォン・デュ・ラックの閉鎖した工場の機械をそこへ運んで使用した。工場の砂糖歩留まりは8%あり、1870年から4年間稼働したが、事業は財政上失敗に終わった。工場の機械は分解され、1874年にカリフォルニア州サンタクルーズ近くのソーケルへ運ばれ、オットーとボーネンシュティールはそこで1877年までてん菜を処理した。

 E.H.ダイア―は20万ドルの資本で1879年にスタンダード精製糖会社をアルバラードで設立し、息子のエドワードが工場長に就任した。工場の第3稼働期の1881/82年期には事業は興隆し、1884年には毎日100トンのてん菜を処理するまでになり、1885年に工場は拡張された。しかし、1887年にボイラーの爆発により工場の建物が破壊され、会社は破産した。その後、E.H.ダイアーは会社の財産を継承するため、1887年に太平洋岸製糖会社を設立し、息子のエドワードとハロルドも加わり、工場を新設したが、2年間稼働しただけで、財政上の失敗に終わった。1889年にはアラメダ製糖会社が工場を継承し、てん菜処理能力を1日800トンに引き上げた。

 次に、米国の製糖業の歴史上著名な人物は、クラウス・スプレッケルズ(注)(1828〜1908年)(図4)である。彼はドイツのニーダーザクセン州ラムシュテットの生まれで、兵役を逃れるために18歳で祖国を離れ、1846年にポケットに3ドルを突っ込んでチャールストン(サウスカロライナ州)に上陸し、同地の雑貨店店員として週給4ドルで働き、こつこつと貯金して、自分の店を開いた。その後、彼は金鉱が発見(1848年)され、ゴールド・ラッシュが始まった(1849年)カリフォルニアへ行き、小さな精製糖工場を購入した。彼は1865年には最新の砂糖精製法を知るため、マクデブルク(ドイツ中部)へ行き、精製糖工場の労働者として8カ月間働き、学んだ後、退職を申し出て、最も近代的で最良の製糖機械を購入し、サンフランシスコで精製糖工場を建設した。工場は当初、原料の粗糖をフィリピンから購入し、精製していたが、後にはハワイから入手することになった。彼はハワイ王国のカラカウア1世(1836〜91年:在位1874〜91年)からマウイ島で4000ヘクタールの土地を取得し、1876年にハワイ商業製糖会社を設立した。取得した土地は乾燥し、痩せていたため、彼は50万ドルを投じて21マイル(約34キロメートル)の長さのかんがい用の用水路を建設した。その結果、痩せた土地は甘しゃ栽培に適した土地に変貌し、彼はハワイ諸島におけるかんがいシステムの先駆者となった。1875年には米国とハワイ王の間で互恵通商条約が締結され、ハワイからの砂糖は無税で米国に輸入することができた。そのため、スプレッケルズはハワイの粗糖をサンフランシスコの精製糖工場で使用し、他工場よりも安価で精製糖を製造することができた。彼は製糖事業のほか、ホノルル〜サンフランシスコ間の砂糖と乗客を輸送する商船会社やホテル経営にも携わり、巨万の富を築き、ホノルルの宮殿風の豪邸に居住し、「ハワイ諸島の砂糖王」「キング・クラウス」と呼ばれた。

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 クラウス・スプレッケルズがてん菜製糖を知ったのは1865年にマクデブルクに滞在した時であり、米国のてん菜製糖工場を知ったのはE.H.ダイアーがアルバラード工場を建設した1870年であった。それから長い年月が経過した後、彼は1888年にカリフォルニア州ワトソンビルでてん菜製糖工場を建設した。これまでの米国のてん菜製糖工場は短命に終わったが、この工場の経営は順調で、11年間稼働した。一方、彼が苦労の末、諸事業を築き上げてきたハワイでは王国の独立を維持しようとした女王リリウオカラーニ(1838〜1917年:在位1891〜93年)は、反乱によって退位させられ、1894年に王制が廃止になり、ハワイ共和国が発足し、1898年には米国に併合された。このようなハワイでの政治的状況の変化を受けてスプレッケルズは、ハワイでの事業を2人の息子(クラウスとルドルフ)に委ね、米国へ活躍の舞台を移した。彼は閉鎖したワトソンビルの工場設備とドイツのグレーベンブローホ(ドイツ西部)から取り寄せた機械をカリフォルニア州サリーナターレスへ搬入し、1899年に毎日3000トンのてん菜処理能力を有する世界最大のてん菜製糖工場を建設した。ハワイのかつての甘しゃ糖王クラウス・スプレッケルズは、米国におけるてん菜糖業の推進者になった。

 19世紀末の米国のてん菜糖業において重要な人物は、ヘンリー・オックスナード(1861〜1922年)である。彼は1890年にネブラスカ州グランドアイランドでてん菜製糖工場を建設した。同工場は1965年まで稼働した。続いて、1891年にはネブラスカ州ノーフォーク(1905年まで稼働)とカリフォルニア州チノ(1926年まで稼働)でてん菜製糖工場を建設した。さらに、彼は1911年に米国てん菜製糖会社協会を設立し、長年にわたり会長を務め、米国のてん菜糖業の発展に貢献した。

 前述した通り、ユタ州ソルトレーク・シティでモルモン教徒が1853年に建設したてん菜製糖工場は、失敗に終わり、わずか2年で閉鎖された。その後、30年余りの歳月を経て、モルモン教第4代首長ウィルフォード・ウッドラフ(1807〜98年)は、再びてん菜製糖工場を建設する計画を立てた。彼は1889年にカリフォルニア州アルバラードのE.H.ダイアーとワトソンビルのスプレッケルズの工場視察に代表団を派遣し、同年にユタ製糖会社(後にユタ・アイダホ製糖会社に改称)を設立した。会社は米国製の機械を工場で使用する予定をしていたので、若くて経験豊かなエドワード・F・ダイアーを工場長とする機械工場を建設した。ダイアーはユタ州リーハイでてん菜製糖工場を40万ドルで建設する注文を得た。その際、会社は彼と製糖部門に経験豊かな職員が最初の稼働期に指導するという契約を結んだ。

 モルモン教首長ウィルフォード・ウッドラフは、「皆さん、われわれはこの工場の建設で前進しなければならない。—(中略)われわれが前進すべきかどうかを問うとすれば、光が現れる。そのような場合には光に従うというのが、私の生涯の習癖である」と述べているように、工場の建設は営利的事業ではなく、首長のビジョンに基づいて実行される宗教的任務であった。ユタ製糖会社は、1891年にユタ州リーハイでてん菜製糖工場を建設した。会社はモルモン教首長=会社社長ということで、モルモン教の大きな信用を当てにすることができるという強みを持っていたことから、あらゆる資金面の困難は克服され、最初の稼働期は順調な経過をたどった。これまでの米国のてん菜製糖工場は短命に終わったが、リーハイ工場は1937年まで46年間操業した。

(注)クラウス・スプレッケルズはドイツ人であり、「シュプレッケルズ」と表記すべきであるが、18歳から米国で生活し、米国で亡くなったことから、本稿では英語の発音で「スプレッケルズ」と表記している。


【参考文献】
Jakob Baxa und Guntwin Bruhns(1967), Zucker im Leben der Völker−Eine Kultur-und
Wirtschaftsgeschichte, Berlin, Verlag Dr.Albert Bartens, SS.88-119, SS.128-145, SS.192-201.

 
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