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台湾社会の甘い飲食文化―砂糖の歴史生態から考える

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最終更新日:2021年3月10日

台湾社会の甘い飲食文化―砂糖の歴史生態から考える

2021年3月

国立民族学博物館 野林 厚志

【要約】

 食文化を物語る重要な要素の一つに味があり、それは食文化が育まれた風土や歴史と深く関わりを持つ。本稿では台湾における飲食物の甘味を手がかりにして、人々の生活の中で糖がどのように位置付けられてきたかを、食生活と製糖の産業化という脈絡で紹介する。そこからは移民社会と植民地という歴史経験が食文化を通して見えてくる。

はじめに

 台湾で砂糖が人々の生活の中でどのように位置付けられてきたかを、食生活と製糖の産業化という脈絡で紹介することがこの小稿の主要な目的である。移民社会の台湾において甘みのある飲食物が生活上不可欠なものであったということ、植民地経営を軌道に乗せる上で製糖を産業化することが重要であったことを、歴史文献や民族誌的記述に基づき紹介したい。

 人類の歴史において、食生活という日常レベル、基幹産業という国家レベルで重要な役割を砂糖は果たしてきた。自然環境から生態資源として人間に見いだされ、それが社会的産物となっていく過程には、砂糖をめぐるさまざまな事象や人々が複雑に絡み合ってきた。砂糖をめぐるこうした問題を考える嚆矢(こうし)となる研究が、人類学者のシドニー・ミンツが1980年代の半ばに出版した『Sweetness and Power』であろう。

 ミンツは、産業革命以後のイギリス社会において、砂糖が上流階級の嗜好(しこう)品から労働者階級の必需品として広く社会の中に浸透していく過程を、砂糖生産の歴史生態学的な分析によって示した(Mintz 1985)。サトウキビは農産物ではあるが、砂糖の生産と消費の過程は、砂糖プランテーションと工場労働者による大量生産という、近代社会の産業的側面を持っていたという着想の下に、甘みという特定の味覚の生理的要素が集団の飲食物の中に組み込まれていく社会性を、歴史的に分析し世界システムの中で鳥瞰(ちょうかん)したものとして一定の評価を得てきた。

 ミンツの視点から学び得るのは、社会に定着してきた食の嗜好や料理の味を考える上で、味を生み出すもとになる食品や原料の生態学的、歴史的側面を併せて考える必要があるということである。甘みについて言えば、甘味のある飲食物や、それを実現させている砂糖、甘味料がその社会の中に定着してきた過程には、砂糖や甘味料の生産、それらが用いられた甘味のある飲食物の消費形態、消費する人々の生活形態などが絡み合った状況が存在している。そして、18世紀以降の世界で、植民地経営とも深く関わりのある農産物であった砂糖は、世界の他の地域においても食生活における味の嗜好に少なからず影響を与えてきたのである。

 本稿の問題意識もこれと軌を一にしており、特に、飲食物の甘味のもととなってきた砂糖の生産が、台湾の日本植民地統治期(1895年〜1945年)に安定していったことや甘味を持った食文化が同時期にすでに定着していたことに注目する。台湾における砂糖生産の歴史は、日本植民地時代における製糖産業の隆盛や対外交易上の重要性も含めて経済史的な関心に基づく研究が進められてきた(矢内原 1929、吉川 1931、林 1997、李 2012)。一方で、味覚の受容や食文化という脈絡で台湾社会における砂糖の位置付けを扱った研究はそれほど多くない。本稿では、台湾における砂糖生産とその産業化についての基本的な理解を踏まえつつ、砂糖が用いられた食品が人々にとってどのような存在であり、それが社会に与えてきた影響を考えてみたい。

1.移民社会台湾における甘い飲食物の生態学的適応

 台湾は温暖湿潤気候から熱帯モンスーン気候(ケッペンの気候区分ではCfaからAm)に属する島しょ国家である。面積は日本の九州と同じくらいの広さで、現在の人口はおよそ2300万人である。多民族国家を自認する台湾の民族構成は複雑だが、その大半の90数%は漢族系の住民で占められている。そして、漢族系の住民は第二次世界大戦以前から台湾に居住してきた人たちと、大戦後に台湾を統治した中華民国の当時の与党である中国国民党政府とともに台湾にやってきた人たちと、大きく二つに分かれる。前者は17世紀の後半から19世紀にかけて大陸側の福建省や広東省からの移民の子孫である。第二次世界大戦後の中華民国施政下で台湾が台湾省とされたのを受け、これらの人々は通称で本省人と呼ばれるようになった。

 初期の移民は基本的に農業移民であり、山岳地域における狩猟や自給的な焼畑農耕を行ってきた先住集団に対して、サトウキビプランテーションでの労働や、それに並行して行われていた稲作を中心とする農業従事者が大半を占めていた。施政者による計画的な開拓事業が進められていなかった清朝支配下の台湾において、人力に頼る形で行われた農業を中心とする労働環境は、カロリーを確実かつ大量に摂取できる食べ物を必要とし、それに砂糖が果たした役割は大きかったと考えてよい。とりわけ、高温多湿な気候環境の台湾では、特に夏季における食事やカロリーの摂取の手段として、甘味のある飲食物を取るのは生態学的にも適応していたと考えてよい。

 一方で、砂糖の側から考えると、生育条件において低温状態を嫌う一方で、一時的な渇水に耐性のあるサトウキビは台湾に適した植物である。従って、歴史的に早い時期から、台湾において砂糖が人々の食生活に重要な役割を果たすことになった背景には、人間とサトウキビの両方の生態が上手くかみ合ったことがある。

2.産業の基盤となる砂糖生産

 とはいえ、在地の人間の消費がもっぱらの需要では砂糖生産が産業の基盤とはならなかったであろう。砂糖生産が台湾の基盤産業に成長したのは日本の植民地経営が深く関わっていた。

 台湾における砂糖生産は、歴史的叙述が残されるオランダ統治時代(1624年〜1662年)から、その様子が比較的よく分かるようになってくる。台湾南部に統治地域をもったオランダは、漢族系住人を使ったプランテーションによるサトウキビ生産を行い、年間1000〜1500トンの砂糖を生産していた(Tseng 2016)。生産された砂糖は当初は中国大陸側へ輸出されていたが、1640年代には中国大陸側で飢饉(ききん)が生じたのを機に、台湾の農民は稲作の割合を増やした。台湾と中国との間で砂糖の取引を担っていたオランダは、砂糖の取引値段を引き上げ、輸出先を中国から日本へと移行する経済戦略を取るようになった。また、オランダは漢族系住人の雇用を増加させた。このことが、大陸側から台湾への移民を増やしたとされている。

 台湾におけるサトウキビプランテーションに外部からの奴隷の導入はほとんど見られなかったようである。漢族系住人による砂糖の生産様式がある程度確立しており、オランダは砂糖交易の仲介者として関わっていたからと考えてよい。この点においては新大陸における砂糖プランテーションとは異なる状況が台湾で生じていたことになる。

 台湾の砂糖プランテーションのもう一つの特徴は稲との競合である。大陸側で稲が凶作となると、大陸側での米の需要が高まり米の価格が上昇するため、農民はサトウキビではなく稲の作付けを増加させていた(Tseng 2016)。

 一方で、生産される砂糖が重要な輸出品であった点は大きくは変わらなかったようである。生産された砂糖は蘇州、上海、寧波、鎮江といった大陸に向けて輸出されるだけでなく、ルソン島や日本への輸出が行われていた。ミンツが示した、18世紀における「アジアの品種−アフリカの労働力−アメリカの生産−ヨーロッパでの消費」という、砂糖グローバリゼーションの構図に対して、東アジア沿岸域では、「アジアの品種−台湾・中国の労働力−台湾での生産−中国・日本での消費」という砂糖経済圏が17世紀半ば以降に形成されていたことになる。とりわけ、日本の開国後は、横浜に進出した Jardine, Matheson & Co.社のような欧米系の糖商や、台湾南部に拠点を置いた漢族系の商人が力を付け、日本における台湾砂糖の輸入、消費は増加していく(李 2012)。1868年に台湾が国外に輸出した砂糖の総額のうち日本向けは全体の22.95%であったのが、1895年には実に97.84%を占めるようになっていた(林 1997)。砂糖の輸入をほぼ台湾に頼っていた日本にとって、台湾の領有は砂糖の生産から消費を自領で行えるという経済面での重大な意味を有していた。さらに、砂糖の供給先の約2分の1は日本で、残りの大半を清朝がある中国大陸に輸出していたことから、日本の内需を満たす上でも、対外貿易という点においても、台湾の製糖事業は植民地政策の成否の鍵を握っていたと言ってもよい。

 一方で、砂糖生産の技術は、オランダ統治時代から清朝時代を経て、日本統治時代の開始時にかけてはそれほど劇的な進展は見られなかったようである。『臺海使槎録』に書かれた製糖の過程では、10月に製糖小屋が建てられ、作業に携わる人たちが17人雇われ、2〜7人くらいで製糖作業の工程に分かれて作業をしているとされている。最初にサトウキビを破砕し、灰や油を混ぜながら煮出す工程を経て原料糖が作られるとされており、破砕の動力には水牛が用いられていた。日本統治時代初期の『台湾事情』では、製糖はサトウキビが成熟し収穫の時期となる11月中旬に行われ、サトウキビの圧搾、加熱、凝縮の過程がとられ、2回の加熱の後に、落花生の油と牡蠣灰を加えて凝固したうえで精製されていたとされている。

 こうした状況に大きな変化をもたらした一つの要因が、1901年に新渡戸稲造が総督府に提案した「糖業改良意見書」(以下「意見書」という)である。この背景には、台湾における砂糖生産量が台湾を領有した後、減少している状況があった。統計資料によれば、1876年には約5万5000トンの生産高であったのが、1900年には約3万5000トンにまで減少した(台湾銀行 1919)。新渡戸の「意見書」では、台湾において製糖業が発展しないのは人為的な要因にあるとしていた。台湾の保守的な農民を相手に国家権力をもってあたることがうたわれているが、これは、19世紀の後半に、西洋から新たな製糖機器の導入があったにもかかわらず、地元の農民がそれを採用せずに、従来の方法を踏襲していたことにもよっていた。要は、糖業改良の促進のためには国家の介入が必要という主張である。

 この意見書を基に、台湾では資金補助、原料確保、市場保護の3点を重点とした糖業生産の近代化が図られた。新式製糖工場に補助金の交付が限定され、地域のサトウキビ生産者が、栽培したサトウキビを必ずその地域で政府が指定した製糖場へ売り渡すことを義務付けた「原料採取区域制度」を取った。これによって、製糖業そのものを独占し、原料を独占することが可能となった一方で、過剰生産や採取時期を逸した原料も引き取りを義務化し、作付けは自由化するといった対応も行い、製糖業の保護政策を取ったのであった(矢内原 1929)。同時に、台湾総督府は1900年に台湾製糖株式会社を設立し、製糖産業を確立する政策を進めた。

 1911年に、日本が関税自主権を回復すると、手厚い関税の保護を受けることになり、これらの政策のもとで1920年代初めごろまでに、近代製糖業は日本統治下における台湾経済の基軸産業となった。同時に台湾において砂糖生産が軌道に乗ったことにより、台湾内での砂糖の消費量も明治31年期(1897年11月〜1898年10月)の人口1人当たり1年間の消費量が7.37斤(注)(約4.4キログラム)から、昭和2年期(1926年11月〜1927年10月)には、12.21斤(約7.3キログラム)へと増加している(矢内原 1929)。

(注)1斤は約600グラム。

3.砂糖が育む甘い食文化

 高温多湿の環境下では雑菌の繁殖や寄生虫の混入が自然水には免れ得なかったため、台湾では生水を飲む習慣はないといってもよい。そうした環境下で、人々は暑気を払う方法として、青草茶、リュウガンの花を発酵させてつくる龍眼花茶、グアバの葉を焙煎して作る〇(木へんに八)仔茶、麦や米を原料とした〇(麦の旧字体)仔茶(麦茶)、米仔茶(玄米茶)といったある種のハーブティーが作られ飲用されてきた。

 一方で、水分の補給や日常的なカロリー源の摂取を目的とした甘味食品や甘味飲料が発達してきたことも知られている。これは清代に台湾に大量に移入したのは農業の地を求めた開拓民であり、開墾で新天地を切り拓いていくためには、水分やカロリーの補給は不可欠なことであったからと解釈されている(曽 2008)。例えば、1903年7月2日付の「本島人夏季の飲料(衛生上の注意)」という見出しの台湾日日新報の記事では、本島人、すなわち漢族系の台湾住人が作る飲食物で生水と混ぜたものを発売禁止にしたが、効果は挙がらず、コレラの発生が防がれていないという顛末が述べられているが、本稿の課題に関連して注目するべきことは、摂取に注意するべきものとしていずれも甘味をもつ飲食物が挙げられている点である。

 (以下「本島人夏季の飲料(衛生上の注意)」抜粋)

・粉茶(フンテー)
蕃薯(かんしょ)の粉を湯にて捏ね薄く延ばして蕎麦切の如くなしたるものを冷水に浸し酸水を混じて食料とす

・惡堯(オギヨー)
惡堯樹の実を粉砕し之に少許の黄枝子を混じて色をつけ布袋に容れて水に浸し絞るときは一種黄色なる粘液となる之を鉢又は桶に蓄へ凝結すると俟つて小さく切り冷水に酸水を混じて食ふ一見心太の如くなるものなり

・米篩目(ピータイパー)
白米を水に浸し臼にて搗き之を袋に盛りて水を絞り出し小穴の開きたる板の穴より突き出して細節となし湯にて煮更に冷水に浸して酸水又は氷清水をかけて食ふ

・仙草(センツアウ)
仙草と云ふ草に[火]油を加へ水煮となし二三時間を経て後其煮汁に小麦粉にて製したる粉漿と称するものを加えて凝結せしめ酸水或は冷水にて食ふ黒色にして心太の如くなるものなり因に云ふ酸油は雑草藁等の灰より採りたる油にして多量に食するときは生命を失ひ少量にても食傷を為す有害物質なれども仙草を早く煮んが為めに混ずるものなり

・酸水
下等なる砂糖より製する少し酸味ある糖蜜の如きものにて清国より輸入す。

・氷清水
氷砂糖より製する一種の蜜なり

 これらのうち、惡堯、仙草、米篩目は、現代の台湾でも日常的に食べられている食品である。惡堯は、愛玉子(Ficus pumila var. awkeotsang)のことである。クワ科のつる性植物で、台湾の固有種として自生していたものが現在では栽培植物となっている(写真1)。ペクチンの含有量が多く、種子を水中でもんでいるとペクチンが吸水し弾力性を持つゼリー状の固まりとなる。愛玉子ゼリーそのものの甘みは弱いため、食べる際には糖蜜やレモン汁などを添加するとともに、ピーナッツや緑豆を糖蜜とともに炊き上げた(あん)をかけて食べることが少なくない。仙草は、シソ科のセンソウ(Mesona chinensis)を加工した食品である。乾燥した茎や葉を煎じて飲むもので、暑気あたりの防止や解熱の作用がある薬草として長らく中国や台湾で用いられてきた。愛玉子と同様にペクチンを含むため、重曹などを加えて煮出すとゼリー状の塊ができ、それに糖蜜などを加えて食用する。また、センソウのゼリーブロックがはいった「仙草蜜」という缶入飲料品が販売されている。仙草の使用は比較的早い段階から歴史資料の中に現れる。17世紀の半ばの〇(蒋の旧字体)毓英の編さんによる『台湾府志』中には、漢族が仙草を砕いて作る絞り汁に小麦粉を混ぜて煮て、蜜水とともにこれを飲むことで、暑気払いや解毒ができるとされている(〇(蒋の旧字体) 2002)。

 台湾社会において甘味のある飲食物が定着していることについて、郷土史研究家で食文化に関わる著作を著している林明徳は、それが日常生活と結びついたものであることを指摘すると同時に、砂糖の原料となるサトウキビもまた台湾の日常生活や民俗に根づいた栽培植物として捉えられてきたことを次のように述べている(林 2002)。

 「サトウキビは、かつて田舎では、他人のサトウキビを収穫した際に、茎の端や葉は自分で所有することができた。サトウキビの用途はとても広く、端の部分は牛に食べさせることができ、葉は燃料に使うことができ、本体は製糖に用い、根は乾燥してまきとして使用できた。赤サトウキビも同様であり、もっぱら食用とされ、そのままかじったり、焼いたり、絞り汁を取るなど、多くの食べ方がある。台湾の民間の慣習において、結婚の際にはサトウキビの上に赤い紙を載せて「雙頭甜」を示す、すなわち甘い蜜の意味である。また、サトウキビは強い繁殖力を持つので、結婚後に子宝に恵まれることを象徴する。この他に、サトウキビを刃物で割く競争といった民俗遊戯も見られる。宜蘭地域では、サトウキビを使ってアヒルの薫製を作ることで、その皮や肉が甘美になる。伝え聞くところによると、乾燥させたサトウキビの皮を使って炊飯すると味が特に香ばしく甘くなるという(筆者訳)。」

 そして、台湾の庶民が食べていた甘みのある飲食物が現代まで食べ継がれていることは、高温多湿な自然環境におけるカロリー摂取の有効な生態学的適応の手段であること以上に、社会に甘みが定着してきたということを意味している。ただし、社会的な甘みへの嗜好は、産業構造の変化や生活様式が変化した現代の台湾社会において、必ずしも有利な状況ばかりでなく、社会的な不利益をもたらす要因にもなりかねない。

 日本でもここ数年、人気を博しているタピオカミルクティー(写真2)は台湾がその流行の発信元となっていた。台湾では珍珠〇(女へんに乃)茶や泡沫紅茶とよばれ、1980年代に登場し、またたく間に台湾全土に普及し海外にも紹介されて広がっていった歴史の新しい甘みの嗜好飲料である。それまでに普及していたパパイヤやマンゴー、スイカをミキサーで粉砕した果実汁に砂糖や牛乳を加えたジュース(加糖果汁)が市中のスタンドでも売られたり、タピオカミルクティーや同様に甘みを強くした茶飲料を専門に提供するスタンドや喫茶店が増加していった。そして、タピオカミルクティーは糖分とカロリーの含有量が他の市販の甘味飲料よりも非常に高い飲料品であることから、これらが原因となる肥満やそれによって生じる糖尿病やそれが原因となる腎疾患が近年、台湾社会の中でも強い関心を集めてきた。第二次世界大戦後に、台湾における産業構造の変化が生じ、第2次、3次産業の従事者が増加したり、温湿度の調整が可能な居住様式への変更は、かつてのような炎天下における戸外での労働などから台湾の人々を解放した。一方で、甘味に親しむ習慣はそれらにかかわらず、台湾の人々の間に残り、生活様式の変化と食生活の変化とが必ずしも同期しない状況を生み出した。

 台湾における糖質の過剰摂取の一要因とされている泡沫紅茶や加糖果汁は、台湾社会が長い年月をかけて甘味を受容してきた土台があるがゆえに、台湾の人たちが口にし、親しんでいったと考えてよいであろう。早い時期から、種類は違えど砂糖を用いた甘味飲食物が社会全体に定着していく歴史生態学的な背景があったことには留意しておく必要があるだろう。
 
 

まとめ

 高温多湿な自然環境の台湾では、特に夏季における食事やカロリーの摂取の手段として、甘味のある飲食物を取る習慣が根づいてきた。ただし、現代一般に用いられている白砂糖が一般社会に普及するのは、第二次世界大戦以後のことであった。しかしながら、サトウキビに由来する糖質が添加される多様な食品が作られ、このことが、台湾社会において比較的早くから一般社会に甘味のある飲食物を親しませ、消費を定着させる要因となってきた。

 さらに、歴史学的に見れば、栽培されている社会自体の生態学的な需要と対外的な産業需要にも砂糖は応え、その生産が社会の基盤産業としての役割を担うことになる。一方で、世界商品のプランテーション生産地でよく見られる「モノカルチャー」的な状況が台湾の砂糖には必ずしも生じてはおらず、このことは、ほぼ同じ時期に、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカで展開していた砂糖の生産システムとは大きく異なる。新たな技術の導入や施政者の到来に対する現地の人々の反応は地政学的な脈絡でも考えていくべきであろう。

 台湾の砂糖生産の主たる目的は、その大半の歴史においては台湾外への輸出にあったことは確かであり、製品としての砂糖を消費する機会は台湾ではそれほどなかったと考えてよい。ただし、製糖された砂糖ではない部分の利用が積極的に行われ、庶民が育む台湾の甘い食文化が築かれていったのである。

注)本稿は掲載誌にあわせて、拙稿である研究ノート「台湾社会における甘味を嗜好した飲食文化の形成――砂糖の歴史生態から考える」『国立民族学博物館研究報告』44(2):407-437、大阪:国立民族学博物館、2019の内容をまとめたものである。

参考文献

〇(黄の旧字体)叔〇(王へんに敬)(1957)『臺海使槎録』臺灣文獻叢刊第4種
〇(蒋の旧字体)毓英(2002)『臺灣府志』南投:國史館臺灣文獻館
李昌(2012)「海底ケーブルの登場と台湾糖取引制度の変化」李昌〇(王へんに文)・湊照宏編『近代台湾経済とインフラストラクチュア』(現代中国研究拠点 リサーチシリーズNo.9東京大学社会科学研究所)pp.83-114.
林満紅(1997)『茶、糖、樟脳業與台湾之社会経済変遷』台北:聯經出版事業公司
林明徳編(2002)『彰化縣飲食文化』彰化:彰化縣文化局
松島剛、佐藤宏編(1897)『台灣事情』東京:春陽堂
Mintz, S.(1985)Sweetness and Power: The Place of Sugar in Modern History. New York: Viking.
矢内原忠雄(1929)『帝国主義下の日本』東京:岩波書店
吉川哲(1931)『台湾糖業の話』台北:南方国策研究会
台湾銀行編(1919)『台湾銀行二十周年誌』台北:台湾銀行
Tseng, Hua-pi(2016)Sugar cane and the environment under Dutch rule in 17th century Taiwan. In C.J. de Melo, E. Vaz, and L. M. Costa Pinto eds. Environmental history in the Making. Vol.II, pp.189-200. NY: Springer, 2016.
曽品滄(2008)「平民飲料大革命—日治初期台湾清涼飲料的発展與変遷」『中華飲食文化基金会会訊』14(2):pp.18-23.
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