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沖縄県の郷土菓子

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最終更新日:2022年1月11日

沖縄県の郷土菓子
〜琉球王国時代に接待や祭事に用いられていた琉球菓子と古くから庶民に親しまれてきた菓子〜

2022年1月

那覇事務所 片倉 杉夫

【要約】

 ちんすこうやサーターアンダーギーなど、沖縄県には郷土菓子が数多く存在する。これらの歴史は古く、琉球王国時代から伝わるものも多い。これらの菓子の起源は主に王家で食べられていたものと、古くから庶民に親しまれてきたものに分けられる。

はじめに

 沖縄県の郷土菓子の起源は、琉球王国時代に王家において接待や祭事などに用いられていた琉球菓子と、古くから庶民の間で親しまれてきたものに分かれる。

 琉球菓子は、琉球王国時代には、王家などの一部の者しか食べられない貴重なものであったが、明治政府による琉球処分(注1)により琉球王国が消滅したことから、市中で働きだした王家の料理人たちによって、庶民に広められ郷土菓子として根付いたものである。また、その他にも正月などの年中行事や健康祈願、子孫繁栄のための仏壇へのお供え物として古くから庶民に親しまれている菓子がある。本稿では、こうした沖縄県の郷土菓子について紹介する。

(注1)1872年に明治政府が琉球王国に対し琉球王国を廃止して琉球藩とし、さらに1879年には琉球国王の東京在住を求めた処分。

1 琉球菓子

(1)歴史

 琉球菓子は、琉球王国時代に王家において接待や祭事などに用いられたもので、当時は百種類以上あったといわれており、中国と日本の影響を色濃く受けているとされている。中国の影響については15世紀の冊封使さっぽうし(注2)の歴史までさかのぼる。冊封使は1404年から1866年までの462年間に23回、中国から琉球王国を訪れている。当時、冊封使の一行は400〜500人で約半年に及び琉球王国に滞在し、王家は中国料理で一行を接待したが、その際、王家の料理人は冊封使に随行していた中国の料理人や菓子職人から中国料理や菓子の技術を学んだ。

 また、琉球王国の王が交代した際に新しい王の任命を受けるために、中国に派遣した一行に王家の料理人を随行させ、中国料理や菓子の作り方を学ばせた。

 日本の影響については、1609年の薩摩藩による琉球侵入後にさかのぼる。当時、薩摩藩は琉球王国に服属関係を求め、1628年に薩摩藩は出先機関として薩琉間の公務の処理や貿易の管理を担う在番奉行所ざいばんぶぎょしょを那覇に設置した。琉球王国は江戸幕府の将軍即位時の「慶賀使けいがし(注3)」、琉球国王即位時の「謝恩使しゃおんし(注4)」の江戸上りや年頭の鹿児島への「年頭使ねんとうし(注5)」で使節団を派遣する際に料理人を随行させ、日本料理や菓子を学ばせ、日本料理で在番奉行所の役人を接待していた。

(注2)中国の皇帝が諸侯を任命することを冊封(さっぽう)と呼び、貿易相手国に対して形式的な諸侯の任命を行っていた。琉球王国の新国王即位の際に、中国から新国王を任命するために派遣される使者を冊封使という。
(注3)江戸幕府の将軍が代わるごとに江戸に遣わされた使節団。
(注4)琉球王国の国王が代わるごとに江戸に遣わされた使節団。
(注5)年頭に薩摩に遣わされた使節団。

コラム 沖縄県における砂糖の歴史について


 砂糖の原料であるサトウキビはインドから中国を経由して伝わったとされる。朝鮮の「李朝実録りちょうじつろく」では、1429年の条に琉球王国におけるサトウキビのことが記録されている。それによると、サトウキビは生で食べたり煮て砂糖を作るのに利用されており、中国の南部から伝わったとされている。

 サトウキビが植えられていたことから、何らかの方法で砂糖が製造されていたと考えられ、サトウキビを短く切り石で砕き袋に入れて搾汁し、砂糖を作ったともいわれている。

 1623年に儀間真常ぎましんじょう(注1)が琉球王国の進貢船しんこうせん(注2)に自分の村の者を乗せ、中国の福建にて製糖の方法を学ばせて帰り、自分の村で黒糖の製造を試みた。やがて琉球王国中に広めていき本格的に黒糖が製造されるようになった。中国より導入した技法は「二転子三鍋法にてんしさんなべほう」といい、牛を動力として二つの車を回転させ、サトウキビを搾り、搾った汁に石灰を加え三つの鍋で順に煮詰めたあと、おけに入れて冷やし、黒糖の固まりを作り出す方法だった(コラム–写真1、2)。この技法の導入により、製糖量は増加し、黒糖製造は琉球王国の財政を支える重要な産業となった。

注1:沖縄県の基幹産業である砂糖製造の技術を中国から導入して広めた人物で、蕃薯(サツマイモ)や木綿織の普及にも力を尽くし、琉球王国の財政を立て直したので、沖縄の産業の基礎を築いた人物として名を残している。
注2:琉球王国から中国へ隔年で派遣される使いの一員として、儀間真常は1596年に琉球王国から中国に派遣された。そこで中国の農作物の収穫が非常に豊富であることを感じたといわれている。

 

(2)代表的な琉球菓子

 本節では現在残っている代表的な琉球菓子を紹介する。

ア ちんすこう

 ちんすこうといえば沖縄のお土産で定番の菓子である(写真1)。風味はクッキーのようだが、クッキーに比べあっさりしている。
 
 
 琉球王国時代後期の19世紀に王家の料理人の新垣淑規あらかきしゅくきは、冊封使をもてなすために菓子の作り方を学んでいた。

 このとき作っていた中国菓子の一つである蒸しカステラのようなものを焼き固めたものが、後のちんすこうとなった。新垣家は明治時代以降、一族でちんすこうの販売を始めたため、庶民の間でも広く食べられるようになった。

 また、ちんすこうの表記は「珍楚こう(「こう」は米へんに羔)」「金楚こう」とする説が2通りあり、「こう」は菓子を意味している。お祝い行事など特別な席でしか食べられない珍しいものだから「珍楚こう」とされたという説と、王族や貴族だけが口にできる高価な食べ物だから「金楚こう」とされたとする説がある。


イ 千寿せんじゅこう(「こう」は米へんに羔)

 千寿こうはピーナッツバターやオレンジを混ぜたあんをラードを使ったパイ生地で包んで焼いた菓子で、さっくりした食感でほのかに甘いのが特徴である(写真2)。

 赤、黄、緑と色彩豊かで婚礼や法事に用いられた。約10年前、琉球王国を題材にしたテレビドラマ「テンペスト」に登場したことをきっかけに、県内の老舗菓子店により30年ぶりに再現された。
 

 
 闘鶏餃(たうちーちゃお)
  
 闘鶏餃はごまの風味がきいたあんをパイ生地で包み、半円形に整形して周囲にひだを折り込んで揚げた菓子である(写真3)。皮はさくさくしており上品な味で、鶏を表しているので、ひだの折り方が鶏冠(とさか)のようなとがった形になっており、主に法事に用いられていた。
 

 鶏卵(ちんるい)こう(「こう」は米へんに羔)

 鶏卵こうは、卵と小麦粉に、かんきつ類を砂糖で煮詰めた桔餅(きっぱん)と食紅で赤く染めたピーナッツを加えて蒸し上げたものである(写真4)。蒸しパンのような弾力でほんのり甘い味がする。卵をたっぷり贅沢に使った沖縄風のカステラで、琉球王国時代には祝いの時に食べられていた。
 

オ 花ぼうる
 
 花ぼうるはポルトガルのお菓子がルーツであるといわれている。小麦粉、卵黄、砂糖をこねた生地を長方形に伸ばして花模様の切り込みを入れた焼き菓子で、1枚1枚手作りで作られクッキーのような味である(写真5)。主に法事および婚礼や旧盆のお供え物に用いられ、薩摩藩の役人に暑気見舞いとして贈った記録もある。
 

カ くんぺん

 卵黄、砂糖、小麦粉をこねた生地で、ごまとピーナッツバターを使ったあんを包み、円型にして焼き上げた菓子である(写真6)。焼き上がると、中に入っているごまとピーナッツバターがほのかに香り、上品な甘さである。かつて光餅(くんぺん)と表記されてきたが、現在は薫餅(くんぺん)と表記することが多く、旧盆のお供え物に用いられることもある。

 琉球王国では冊封使の接待や法事に用いられてきた。
 

 冬瓜(とうが)(づけ)

 冬瓜を一口大に切り、砂糖で長時間煮詰めた菓子で、表面はサクッとし、中はグミのような食感で甘みが強いため、コーヒーやお酒にも合うとされている(写真7)。

 冬瓜漬は300年ほど前に中国の福建から伝わったといわれており、冊封使の接待にも使われている。
 

2 沖縄県で昔から庶民に親しまれる菓子

 沖縄県では正月などの年中行事や健康祈願、子孫繁栄のための仏壇へのお供え物として今日まで食べられている菓子がある。沖縄県は、言わずと知れた全国を代表するサトウキビの生産地でもあり、離島においても重要な基幹産業となっている。現在も含蜜糖工場が県内に8カ所あるなど黒糖が身近な環境にあり、そういった影響から黒糖が使われた菓子が数多く存在する。本節では昔から庶民に親しまれてきた菓子について紹介する。
 
(1)チンビン

 チンビンは小麦粉と黒糖を水で溶いたものを薄く焼き、巻いた菓子である。味や見た目は黒糖風味のクレープである(写真8)。

 
旧暦5月4日は、沖縄では「ユッカヌヒー」と呼ばれる日で、かつて年1回の玩具市が開かれ、子供の成長や健康を願って、子供たちにおもちゃを買い与え、チンビンを仏壇にお供えする風習があった。
 
 
 (2)ムーチー

 ムーチーは、一般的にはもち粉に水を混ぜて砂糖や黒糖で味付けし、(げっ)(とう)(注6)の葉で包んで蒸して作る(写真9)。

 旧暦の12月8日(新暦で令和4年は1月10日)はムーチーの日といわれ、仏壇や火の神(注7)にムーチーを供えて子供の健康祈願と厄払いをする。

 かつては餅を蒸した後のお湯を冷めないうちに裏戸や門にまいて厄を払う習慣があった。ムーチーのころはムーチービーサ(注8)といわれる寒さが到来する。沖縄県の1〜2月の平均気温は17度と暖かいように思われがちだが、風が強いため寒く感じる日もある。

(注6)ショウガ科の植物で花や葉に香りがあり、山林原野のほか沖縄県の公園や民家などで見られる植物。
(注7)沖縄県では家の守護神とされている。
(注8)ビーサとは沖縄の方言で「冷え」「寒さ」の意味で使われる。

 
 
(3)サーターアンダーギー

 丸い球形の一方がぱっと開き、口を開いたような形をしている揚げ菓子で、サクッとした食感が特徴である(写真10)。

 約500年前、王家の料理人が中国に渡り、「開口笑(かいこうしょう)」という菓子パンのレシピを持ち帰って作ったことが起源になったといわれている。そのため、サーターアンダーギーは主に祝い菓子としてよく使われる。

 沖縄の方言で「砂糖」をサーター、「揚げる」をアンダーギーと言い、これらを合わせてできた名称であるといわれている。

 
 
(4)三月菓子(サングヮワチグヮーシ)

 長方形の揚げ菓子で、味はサーターアンダーギーに近い(写真11)。

 沖縄の旧暦3月3日は伝統的な「女の子の節句」で、女の子のいる家庭で作られる「三月御重」に詰められたことから名付けられたものとされている。この日は、三月御重を持って浜辺に行き、会食や浜遊びを楽しむ日とされている。

 

 
(5)ナットゥンスー

 お正月のお茶菓子として親しまれているみそ味の餅で、上にピーナッツを飾り、月桃の葉が敷かれている(写真12)。みそと月桃の香りに胡椒に似た沖縄の香辛料であるヒハツの辛みが加わった餅である。

 かつては、お歳暮として料亭の常連客に贈られていたといわれている。
 

 
(6)ふちゃぎ

 ふちゃぎは楕円形の餅の表面にゆでた小豆をまぶした餅で、本来の味付けは小豆をゆでる際の塩のみであるが、現在では甘く味付けされているものも売られている(写真13)。小豆の香りとほのかな甘みが感じられ、餅の白は月を小豆は星を表し、小豆の多さは子孫繁栄を願うものであるといわれている。

 名前の由来や作り始めた経緯などは不明であるが、十五夜(旧暦8月15日)の供え物として用いられており、ふちゃぎを火の神と仏壇にお供えし、家族の健康を願う。その後、家族で月見をしながらふちゃぎを食べるのが習慣である。

 十五夜は旧暦の8月15日に行う行事で、以前は月に農作物の豊作を感謝し、今後の豊作を祈願したり、月を見て今後の農作物が豊作か不作か占いをしたといわれる。
 

 
(7)タンナファクルー

 黒糖、小麦粉、卵で作るシンプルな焼き菓子であり、ふわっとした食感で黒糖の香りと甘みが引き立っている(写真14)。琉球王国で食べられていたくんぺんの代用品として作られた焼き菓子であり、庶民に食べられており、形はくんぺんと同じように円形である。

 名の由来は、首里に住んでいた(タン)()(ファ)さんが初めて作ったといわれていることによるものとされている。
 

 
 
(8)(てん)()(まえ)まんじゅう、(やま)(ぐすく)まんじゅう、のまんじゅう(注9)

 那覇には、三大まんじゅうとして「天妃前まんじゅう」「山城まんじゅう」「のまんじゅう」が挙げられる。これらは地域の人々に長年にわたり愛されている。

 天妃前まんじゅうは、那覇市久米にあった天妃宮(注10)の前の店が販売していたことが名前の由来で、はったい粉(大麦や裸麦を煎って粉にしたもの)に黒糖を加えたあんを、薄い皮で包み月桃の葉を敷いて蒸して作っている(写真15)。
 
 
 山城まんじゅうは、あんを小麦粉のうすい皮で包み、月桃の葉に載せて蒸して作られる(写真16)。はったい粉も使っているため皮はモチモチしており、あんの甘さは控えめで上品な味である。
 
 
 のまんじゅうは、発酵させた厚い皮であんを包み月桃の葉に載せて蒸し、文字通り「の」の字を朱書きしている(写真17)。他のまんじゅうよりも皮が厚いため、皮とあんのそれぞれの味わいを感じることができる。昔から沖縄では祝い事には「の」の字を記し、縁起物として扱われている。
 
 
(注9)のまんじゅうは、ぎぼまんじゅうの登録商標です。
(注10)航海の安全を祈る場所として15世紀半ばごろ那覇市久米に建てられたが、第二次世界大戦により焼失し、1975年に同市若狭に再建された。

おわりに

 沖縄県の郷土菓子は、歴史的な背景により、琉球王国の隣国であった日本や中国の技術を取り入れながら、気候や風習、習慣などに合わせた独自の文化を創出してきた。

 琉球菓子は、古くは琉球王家にて用いられる貴重なものであったが、明治時代の琉球処分を契機に、広く庶民にも接することができる菓子として浸透した。また庶民の間では、それらの菓子とは別に、正月などの年中行事や健康祈願などのための仏壇へのお供え物などとして、広く一般に親しまれた菓子として従来よりさまざまなものが存在してきた。現在、沖縄県ではそれらを併せて、郷土菓子として広く食されている。

 今後も沖縄県の歴史と伝統を現在につなぐ存在として、受け継がれていくことが期待される。

【参考文献】
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・安次富順子(2016)『琉球王朝の料理と食文化』琉球新報社 44pp
・益山明(2010)『尚王朝の興亡と琉球菓子』琉球新報社 164pp
・外間守善(2010)『沖縄の食文化』新星出版 166pp pp82–104
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・家庭料理友の会(2013)『家庭でつくる沖縄行事料理とふるまい料理』むぎ社 179pp
・高橋恵子(2009)『沖縄の年中行事 方法と供え物 御願のグイス』那覇出版社 166pp
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・中山盛茂(1969)『琉球史辞典』文教図書 1042pp
・新城俊昭(2019)『教養講座 琉球・沖縄史(改訂版)』東洋企画 438pp
・渡名喜明(1982)『〈資料紹介〉御書院御物帳』 (沖縄県立博物館蔵)『御座飾帳』(同)『御書院並南風御殿後床飾』 (同)1pp 沖縄県立博物館紀要第8号
・沖縄都市環境研究会(2009)『沖縄花めぐり』いしだ文栄堂 123pp
・謝花きっぱん店ホームページ 
 〈https://www.jahanakippan.com/?〉(2021/6/11アクセス)
・ペーチン屋ホームページ
 〈https://peechin.on.omisenomikata.jp/?〉(2021/6/11アクセス)
・新垣菓子店ホームページ
 〈http://www.chinsuko.com/search/detail.php?goods_id=16?〉 (2021/7/21アクセス)

・沖縄県立図書館貴重資料 デジタル書庫ホームページ
〈 https://www.library.pref.okinawa.jp/archive/contents/cat39/map-knowledge.html 〉
(2021/8/20アクセス)
・那覇市歴史博物館 那覇市内旧跡・史跡案内ホームページ
〈http://www.rekishi- archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site/%e8%96%a9%e6%91%a9%
e8%97%a9%e5%9c%a8%e7%95%aa%e5%a5%89%e8%a1%8c%e6%89%80%e8%b7%a1〉
(2021/8/23アクセス)
・一般社団法人 久米崇聖会ホームページ
〈https://kumesouseikai.or.jp/facilites/tenpigu/ 〉(2021/9/3アクセス)
・那覇市観光資源データベースホームページ
〈https://www.naha-contentsdb.jp/spot/410〉(2021/9/3アクセス)
・首里知念製菓和菓子四季彩ホームページ
〈https://shikisai-com.square.site/ryukyu-sweets 〉(2021/9/7アクセス)
・気象庁ホームページ
〈 https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?pr ec_no=91&block_no=
47936&year=&month= 1&day=&view= 〉(2021/12/7アクセス)
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